福永武彦 随筆集 別れの歌 目 次  別れの歌  追分日記抄  信濃追分だより   信濃追分案内   新緑   ノートラ   王様のお相手   ジンギスカン鍋   王様の行方   噴火   草軽電車   高原秋色   閑居の弁   キノコ   人とり川   某月某日   金魚とドジョウ   信濃追分と「菜穂子」   秋近く   石仏その他   山村閑居  信濃追分の冬  室生犀星  追憶小品   高村光太郎の死   神西清氏のこと   ゆうべの心   「我思古人」   天上の花  回想   知らぬ昔   独仏学院の思い出   厳しい冬  清瀬村にて   文学と生と   小山わか子さんの歌   白い手帳   散文詩二題   病者の心  飛天  プライヴァシィと孤独  日の終りに   掲載紙誌一覧   後記 [#改ページ] [#小見出し]  別れの歌      一  堀さんの訃報は僕等をおどろかせ、悲しませた。しかし堀さんは必ずしも不幸な人ではなかったように思う。それは僕自身の回想の中にあって、堀さんと親しくすることの出来た軽井沢の夏が、僕自身の青春の悩みの多い日々に属していて、遠くから振り返ると、青春というものはただ一色に愉しく明るい色彩に思い起されるからなのだろう。それらの日々に、僕等は笑ったり泣いたりした。そして僕等はそれぞれ固有の生活を持ちながらも、堀さんをめぐって自分達の夢を育てていたような気がする。回想の中で、堀さんはいつも若く、にこやかに微笑していられる。文学的な影響というものは、恐らくは徐々に、半ば無意識のうちに滲透するものだろうが、堀さんのあの人間的な温かみはすぐさま僕等を捉えて離さなかった。都会的に洗練された趣味、愉しげな軽やかな座談、しかもお喋りというのではなく、正確に、言葉を愉しむように、そして間々《あいだあいだ》の沈黙さえもが意味を持つように、交された会話、時々の皮肉めいた軽口、若い者に対する友達のような口の利きかた(堀さんは僕等に決して自分のことを「先生」とは呼ばせなかった。そういうしかつめらしいことは嫌いだった。だから多恵子夫人が、わざわざ悪戯っぽく「うちの先生が」などと口にされると、困ったようなにが笑いを見せられたものだ)、一度も機嫌が悪いとか、怒ったとかいう表情を示されたことはなく、にこやかな微笑が絶え間なく流れていた。堀さんが幸福な人だったろうという印象は、単純にそこから来ている。一人の作家の、作家としての内面の苦しみを、さまざまの資料によって研究し、露わに曝き出すことよりも、僕にはそう信じていることの方が愉しい。堀さんの書かれたものは必ずしも明るくはないが、堀さんという人は、病いがちの一生を通じて明るく愉しい人であったと、幸福な生涯を送られたと、そう信じたく思う。      二  堀さんに最初にお会いした夏のことを、思い出すままに書きしるしてみよう。それは堀さんの思い出というより、或いは僕と、僕の周囲にいた友人達との生活に触れることの方が多いかもしれないが。  僕が初めて軽井沢へ行ったのは、昭和十六年の夏だった。その年の春、僕は大学を出て日伊協会に勤めていた。夏に取った休暇がいつ始まりどのくらい続いたかは明かでないが、恐らくは十日に充たなかっただろう。往きの汽車はM夫人と一緒で、ちょうどその春頃から時々発作的に起るようになっていた病気(後に医者はそれを心臓神経症だと説明したが)のため、上野駅を荷物を持って走りながら、殆ど倒れそうになった覚えがある。M夫人は千ヶ滝の別荘に行くので、僕は軽井沢の駅で別れ、迎えに来ていた中村真一郎と共に、旧軽井沢のベアハウスへ向った。それは東京の夏のあとでは爽かな太陽とつめたい空気と、そして緑の樹々が眼の覚めるように思われる高原だった。  ベアハウスというのは、その頃大学の医学部の学生だった森達郎の持っていた別荘に、僕等が勝手につけた名前だった。森君は闊達な、頗る気前のいい青年で、ずんぐりと肥っていたから多少その動作が熊に似ていた。僕等は達郎と呼ぶ代りに達熊《たつくま》と渾名していた。ベア(熊)ハウスというのもそこに由来している。  旧軽井沢で電車を降り、メインストリートを郵便局のところから左に曲って、林の間をくぐり抜けてから漸く目指す別荘に着いたが、そこの庭先で一人の大柄の青年が、蹲ったまま黙々と木のベッドの手入をしていた。それが初対面の野村英夫だった。たしか森君もそこにいて、中村と四人、腰を下してヴェランダでお喋りを始めた。野村君は癖のない、豊富すぎるほどの髪を長く延して、その額が如何にも聡明だった。ひどく子供っぽい微笑を真白い歯と共に見せたが、口数は尠なかった。僕がお土産に持って行った罐入のボンボンを、暫くの間に中村が一人で平げてしまったのは確かこの時のことだったろう。僕等は一部屋ずつを占領して(僕のベッドは野村君がそれまで直していたものだった)、それぞれ、それも特に午前中は、自分等の勉強を大事にした。僕は「風土」を書き始めていたし、中村はバルザックの、野村君はジャムの、翻訳に精を出していた。が僕は、仕事よりも軽井沢の町、というより小道から小道を辿って、朝の爽かな空気の中での一人歩きを愉しんでいた。大学を出て初めてのサラリーマン生活で、与えられたこの暫くの自由は何ものにも替えがたかった。  賄は野村君の妹さんの手を煩わしていたが、昼食が済むと僕等は連れ立って町を歩いた。戦争の始まる数ヶ月前で、国際情勢は既に嶮しくなっていたものの、外人達は我が物顔に町を歩き、テニスをしたり馬に乗って走ったりしていた。この年はまだ何でもあったから、メイジでは牛乳が飲めたし、ブレッツではアイスクリーム・サンデー、菊屋ではババロア、アメリカン・ベエカリではうまいケーキが食べられた。もっとも初任給七十五円の僕にはそう贅沢も出来なかったが。  そういう午後、僕は初めて堀さんの家に連れて行かれた。オットー独逸大使の宏壮な別荘と細い散歩道を隔てた小ぢんまりした庭の中、その中に堀さんの別荘が正面にヴェランダを見せている。堀さんはスポーティなジャケツ姿で、大抵はこのヴェランダで椅子に凭れて本を読んでいられた。  それまでに僕は必ずしも堀辰雄のいい読者であったとは言えない。大学時代に、中村から堀さんのところへ行こうと度々すすめられたが、漸くこの年になって夏に出掛ける決心がつき、試験勉強のようにして堀さんの作品を通読した。しかしこの時の浅い読みかたでは、荷風以後の稀に見る小品作家としての堀さんの資質は直に理解できたが、小説については僕の考えとかなりの違いがあった。従って僕は、必ずしも心酔して堀さんの許を訪ねたわけではない、寧ろ多分に批判的だった。  中村や野村君が活溌に口を利いている間、僕はぼんやりと堀さんのパイプの青い煙を眼で追っていた。堀さんの話振りは魅力的で、軽井沢のよもやまの噂話が僕達を飽かせなかった。作品に魅力を感じる先に、僕は堀さんという人柄にすっかり参ってしまった。多恵子夫人の親切なもてなしも、僕にはまったくアトホームだった。  この初対面の時の印象は、江戸っ子らしい口の利きかたにも拘らず、なぜか僕に旅人としてしるしづけられた。この年の春や秋を、堀さんは木曾路や大和路などへ旅行され、次の年には雑誌に「大和路信濃路」を連載されている。しかし僕の印象はそこから来たのではない。晩年を殆ど病床で過された堀さんは、たとえ病床にあっても、僕にはやはり旅人として感じられた。現にあるものだけには満足せず、心の中に最後まではかない幻を追う人として、——常に旅先にある清々しく洗われた瞳で人生を見ている人として。芭蕉をあげるまでもなく、孤独な旅人はどのような苦しい流浪の果にあろうとも、常に暖かい魂の持主でないことはない。  日曜日は「木の十字架」のあるカトリック教会に出掛けた。堀さんも時々そこへ顔を出されたらしい。僕等のように(野村君だけは例外だった、彼は後に回心した)、信仰もないのに出掛けて行く連中を「サンマー・クリスチャン」と呼ぶのだそうだ。僕なんか物珍しいので、内部の建築を見たり、信者の外人達を眺めたりしていた。  敬虔なお祈りを捧げている人達の間に十二、三歳の可憐なロシア人の少女がいて、よく小さな弟の手を引き母親に連れられて、メインストリートなどを歩いていた。フランス語で他の外人達と話をしていたので、僕等も何とかして近づきになりたかったものだが。イタリア大使館附武官の娘である少女もいて、野村君の好きなのはこの子だった。年はロシア人の少女と同じ位、やはり小さな弟が一緒で、この男の子はまったく抱き上げてやりたくなるほど可愛らしかった。そしてこの場合にも、結局誰一人友達にはなれなかった。  この年の印象は、翌年の昭和十七年の夏のそれと奇妙に入り混っているから、正確には思い出されない。僕は次の年には長く軽井沢に滞在して、殆ど秋の深くなる頃までいた。しかし戦争は既に始まりいつ召集が来るかも分らなかったし、胸の底には重い苦しみを抱いていたから、この昭和十六年の印象ほどに明るくはない。僕等は皆、英文で書かれた Map of Karuizawa を持っていて、例えば Lost-Ball Lane などというものを、わざわざ探して歩いたものだ。堀さんが一緒の時もあったしそうでない時もあった。川端さんの別荘のある「幸福の谷」の方へも行ったし、手入の届いた室生さんの庭の前を恐る恐る通り過ぎたりもした。貯水池へ行くにはだいぶ歩かなければならなかったが、そこの草原に寝ころんで雲のたたずまいを眺め、「ヘッセの雲だ」などと言っている時には、時間の流れるのも感じなかった。その帰りにロシア人が昔集団生活を営んでいたという奇妙な空家を見に行き、家の中へははいれなかったので水のないプールの赤錆びた飛込台の上に、森君や野村君と代る代る登ったりした。  一日、中村と共に千ヶ滝にM家を訪ね、そこの二人の小さな女の子とぐみの実か何かぶつけあって遊んだ記憶がある。帰りに沓掛《くつかけ》の蕎麦屋で名物の蕎麦を食べビールを飲み、少し酔払ってベアハウスへ帰って来た。それはたしか諏訪神社の祭礼の日だった。僕等は夕食後、人通りの多いオージトリアムのあたりを、堀さん、多恵子さん、室生さんのところの朝子さんやあさみちゃん、などと連れ立って散歩をした。僕も多少酔が廻っていたせいもあって、堀さんと話をするのにもう怖気づいてはいなかった。堀さんの縁つづきのよっちゃんという小さな子が一緒で、僕は覚えたてのや≪nonso unpoco≫などの簡単なイタリア語を教えてあげた。堀さんはステッキを振りながら、ちょいちょい皮肉をとばした。歩けばかすかに汗ばむほどで、夜風がいつまでも快かった。  その年の僕の軽井沢滞在は極めて短かかったから、帰らねばならない日は直に来た。僕は堀さんのところへお別れに行き、そこで長篇を書いているというようなことを話し、あせらずにやるようにと言われた。恐縮している僕に、奥さんに道案内を命じられて、多恵子さんが自転車に乗ったよっちゃんと一緒に、途中まで見送って来て下さった。それは Sanatorium Lane に出る近道で、蘆のいっぱい生えている溝のような小さなせせらぎの間を、通り抜けなければならなかった。僕等は Sanatorium Lane と Sandoyama Road との交叉するところで手を振って別れた。そして僕は東京での勤めのことを思いながら、スーツケースを片手に、一人で軽井沢の駅へと歩いて行った。      三  堀さんのお弟子のことを次に書いておく。  堀さんはお弟子というような言葉を嫌って、年少の友人という言葉をよく使われたが、立原道造がそういう意味では一番親しかっただろう。立原は一家の作風を持ち、短い生涯ながらそれだけの仕事を為し終えて死んだ。立原の詩作に堀さんの影響は明かだが、反対に、堀さんの作品の上にも、立原の生涯は大きな影を投げかけている。堀さんの作品の重要な主題である死から生への回帰には、昭和十年の矢野綾子の死と、昭和十四年の立原道造の死とが大きく作用し、その痕は中期以後の作品のいずれにもしるしづけられている。立原を喪って以来の堀さんは、そういう文学的な共感を頒ち合うような年少の友人を、持たれなかったように思う。  野村英夫はまったくお弟子と呼ぶにふさわしかった。野村は堀さんの「雉子日記」などに登場する。いつも野村少年と呼ばれていたが、僕が彼を識った昭和十六、七年の頃にも、彼はまだ子供子供したところを失っていなかった。それでも年は、僕や中村真一郎などとほぼ同じ位だったろう。僕は昭和十七年の秋に、殆ど一月ばかり彼と一緒に軽井沢の別荘に暮したことがあった。夜が落ち煖炉の前に二人して話し込んでいた或る晩に、彼がおずおずと僕に詩の原稿を見せたものだ。読んで直してみてくれと言う。僕は笑った。「君は堀さんに見てもらえばいいじゃないか。」野村は持ち前の子供っぽい微笑を見せて、もう少しうまくなってから、と答えた。そこで僕が予備校の教師にされて忌憚のない感想を述べた。その頃、彼が一番愛読していたのはフランシス・ジャムで、僕の方はリルケに凝ってドイツ語の勉強などをしていた。従って、詩の傾向が少しは似ていてもよさそうなものなのに、二人の詩作にまるで共通点がなかった。それに、下手なくせに彼の頑固なこと。結局彼は堀さんに見てもらいに行ったが、僕は彼の詩作が、その後どのくらい進展したかよく知らない。今度、遺作の詩集が出ると聞いて、僕にはすべてが懐しく思い起される。  野村英夫の次に、森達郎がやはりお弟子らしいお弟子だった。しかし森は医学部の学生だったし、卒業してからも、文学的な仕事をしないで死んだ。森のことは、堀さんの「斑雪」や「雪の上の足跡」に見られる。快活な、善良な青年で、僕は彼から猫を手馴ずける秘法というのを教わったことがある。病的なほど猫の好きな奴だった。  僕は戦後、北海道へ行っていたし、そこで病いを得てサナトリウムに暮すようになり、久しく堀さんにお会いすることもなくなったから、この頃誰が堀さんに近しくしていたか知らない。その間に、野村英夫も森達郎も死んだ。  中村真一郎は昔から堀さんと親しかったが、彼や、加藤周一や、矢内原伊作や、それに僕などのように、文学的な意見を異にする場合にはそれをはっきり言い出せるような若い連中が、堀さんに必要なのではなかったかと、そうも思う。堀さんの文学は醇乎とした独自のものだ、何も僕等のような若い連中の意見なんぞ必要ではなかっただろうが、しかし僕等の情熱が堀さんに対していい意味で影響したと言えないこともないだろう。惜しいことに堀さんの御加減が戦後ずっとよくなかったから、堀さんは遂に新しい作品をお書きになることはなかったけれども。      四  僕が最後に堀さんにお会いしたのは、昨年、昭和二十七年の九月だった。僕は漸く恢復したとはいえ、その頃まだサナトリウムの外気小舎にいて、五日間ほどの許可を貰うと追分の油屋に滞在した。毎日のように堀さんのお宅をお訪ねしたが、しかしそれはいずれも慌しい印象に過ぎなかったし、昔のように長々とお喋りをするわけにも行かなかった。今年の春、僕はサナトリウムを出た。落ちつかぬ日々を送り、六月になったら追分へ旅行するつもりでいて、今はそれも空しいことになった。人の死に出会う度にいつも感じる一種の口惜しさ、暗い憤りのようなものが心の中を占めていて、還らぬ想いばかりが大きい。  その早い秋の滞在期間中、毎日のように雨が降っていた。中村真一郎が一足先に来ていて、夕刻僕が傘を持って沓掛の駅に降りると改札口に立って待っていた。油屋の玄関をはいると、帳場で多恵子夫人の声がした。むかし通りの多恵子さんの明るい微笑が、堀さんの病状までも僕に安心させた。疲れているだろうから今晩は来ないようにと、そういう堀さんからの伝言だった。そこにいつもの堀さんの心遣いを感じた。  その前に堀さんにお会いしたのは、戦争の終った直後の、昭和二十年の秋だったから、それは実に七年ぶりだった。その頃は堀さんもまだ元気で、散歩なども試みられていた。僕は北海道の帯広から岡山まで旅行する途中、ほぼ一月ちかくを千ヶ滝や上田に滞在した。しかしそれから、堀さんははかばかしい創作も示されないようになり、僕は岡山から東京へ、東京から帯広へと移り住んだあげく、重い病いを得てサナトリウムに寝たきりになってしまった。その間には、むかし僕と親しく、また堀さんには僕よりも遥かに親しかった、野村英夫や森達郎が、同じ病いに死んだ。僕は二人の訃を聞いてさまざまの感慨を抱いたが、堀さんの心の中にもどのような感慨が去来したことだろうか。  あくる日の昼近く、中村と二人で堀さんのお宅を訪問した。堀さんの親しげな微笑は、最早、この七年間の歳月を感ぜしめなかった。随分と痩せられ、首だけをこちらに向けられる動作にも胸の痛くなるものが感じられたが、しかし思ったよりもずっと御元気だった。枕許に積み上げられた本も、むかし僕の識っていた頃の旺盛な読書力をそのままだった。僕は病気のことや、外科手術のことや、それからちょうどその夏出版された僕の小説のことで、出版に尽力していただいたお礼などを述べた。僕等は訪問の時間を早く切り上げた。  中村には長篇の最後の部分を書きあげる仕事があった。僕は久しく書けなかった詩を思い出したように書いていた。二人は宿屋の別々の部屋に陣取り、退屈すると何時間も一緒にお喋りをした。僕の詩作はいっこうに渉らなかったから、中村の原稿を読んでいる時間の方が多かった。毎日のように雨が降っていた。夜、雷鳴を聞いた。  帰る日の午前に訪問した時に、堀さんは「ヌーヴェル・リテレール」の最新号を見せて下さった。そのフランスの新聞にはレーモン・ラディゲの恋人への訪問記事が出ていた。「肉体の悪魔」の女主人公マルトは実名をアリスと言って、もうだいぶの年になっていたが、ラディゲの書いたものはみんな空想の産物だというようなことを述べていた。その恋人のそっけなさを僕等は笑った。堀さんの昔のラディゲへの偏愛のことなどを思い出しながら、こうしたさりげない会話を交すことは愉しかった。あんまりお酒を飲んじゃ駄目だよ、と別れ際に繰返してそう忠告された。  昼すぎにバスで沓掛へ出た。駅のプラットフォームで、初めて、晴れた浅間を見た。颱風が過ぎ去って山々は次第に明るく冴えて行くようだった。高崎を離れると残暑が厳しくなった。      五  今年の四月にぶらぶらと近所の古本屋をひやかしていると、その小さな汚ならしい店に一冊のフランス語の詩集を見つけ出した。表紙に漢字で、中国無名氏古詩選訳と書かれて、そのフランス語訳の題名が側につけられている。訳者は曾仲鳴、小型の薄っぺらな本だが、古代銅版画の複製が幾枚も内容を飾っている。僕はそれを言い値で買い、直に堀さんのところに送るつもりでいた。  あれはいつ頃のことだったか、やはり昭和十七年かもう少しあとのことかもしれないが、堀さんが中国の詩集に凝られたことがある。帙入の本を幾冊も傍らに重ねて唐詩の解釈なぞを聞かされた。森槐南の註釈本を、頼まれて春日町附近の古本屋へ探しに行った覚えもある。恐らくはフランス現代小説と、日本古典と、リルケとに伍して、中国詞華集もまた堀辰雄の文学の泉の一つを為していたのではないだろうか。  ところで僕はその小さな訳詩集を、小包にして送るつもりでいながらつい無精をきめこんだ。六月には追分を訪れようと、それを愉しみにしていたから、送るまでもないという気も多少はあっただろう。存外ありふれた本で、堀さんは既にお持ちかもしれないという疑いもあった。  堀さんが急にお亡くなりになって還らぬ想いのみ多いが、いまこの小冊子を開いてみると、古風で簡素な文章の中に言いしれぬ古代人の歎きを感じる。集中の一篇、隋時代の無名詩人の「別れの歌」を、原文を知らぬままに、ここに稚い日本語に置き代えてみよう。   しだれる柳の枝 葉は緑に   地を掠めてそよぎ   花は白く軽やかに   風のままに飛び去る   いつか枝はすべて形見に折られ   花はすべて尽きる日に   旅人よ 旅人よ 君は帰るか  [#地付き](昭和二十八年六月、七月)  [#改ページ] [#小見出し]  追分日記抄  七月二十一日  夕刻|沓掛《くつかけ》駅着。微雨。多恵子夫人、俊彦さん、それに中村真一郎の三人が迎えに来ていてくれる。夫人に貞子を引合せる。油屋まで車。夕食に招ばれて堀家に行く。多恵子さんと駅頭でちょっと挨拶を交したから今更らしくお悔みを言わないで済む。黙ってお線香をあげる。去年の秋、僕が七年ぶりに追分を訪れた時、堀さんはこの同じ部屋に寝ていられた。本箱や書棚が元のままに配置されているのに、蒲団の敷いてないのが不思議な気がする。霊前に、書物が三、四冊、一番上のはアンジェロスの「リルケ」。  去年の九月に、サナトリウムを抜け出して四、五日油屋旅館に滞在した。その節しばしば堀さんの病床を訪れた。枕許にリルケの書物が置かれていたのを覚えている。今年の春、僕は漸くサナトリウムを退所したが、追分の見晴らしのよい一室にやすまれたまま、原書の頁を切っていられる堀さんにいつでもお会いできるような気がしていた。僕は六月頃また信濃路を訪れる予定だった。訃報が雷撃のように届いた時に、僕は急性の熱病の予後を養っていたから、追分まで駈けつけることが出来なかった。しかし、こういうことはみな還らぬことだ。僕は晩年の堀さんを殆ど知らない。戦争の後、僕も堀さんと同じ病いに臥して相会わぬ月日を過した。漸く僕が健康を恢復した時に、長年の苦しみを語り告ぐべき人は既にいない。終夜、点滴を聞く。  七月二十二日  午後、神西さん夫妻が堀家にお着きになる。丸岡さん、谷田君、前川君が油屋に到着。堀辰雄全集の編輯会議のため。  七月二十五日  会議を終り、三氏帰京。堀さんの全作品を五巻に収めるために、議論に議論を重ねて皆くたくたになる。未発表のものが意外に多い。これらの書類、手帳、研究、断片などを整理しなければならぬ。  夕刻、分去《わかさ》れへと散歩に行く。久かたぶりに空がからりと霽《は》れ、浅間の山肌が陽を受けて明るい。  日附なし  多恵子さんから、堀さんの立原道造宛て、及び野村英夫宛て書翰をあずかって来る。殆ど大部分が用事の手紙。この分では全集の書翰の部分が、他より寂しいことになりはしないか。堀さんは大事な書翰は推敲の上殆ど作品に書き直していられる。従って作品の下書のような手紙でなければ、あとは鉛筆書きの用足しだけのものが多い。僕は去年お会いした時に、——ちゃんとした返事を書こうと思ったけどどうしても出来なくてね、と言われた。僕は寧ろ、長い手紙を書いた自分が悔まれた位だ。  立原も野村も死んだ。森達郎も死んだ。立原は立原として名を為した。野村は死後に一冊の詩集を遺した(彼が詩を書けるようになったのは、まったく堀さんの影響であり感化であると思う)。森は堀さんと共訳でリルケの手紙を翻訳する筈で、果さずに死んだ。この三人はいずれも堀さんの弟子と呼ぶにふさわしかった。僕なんかはいつももじもじして、中村や野村のお尻にくっついていたばかりだ。もし野村が生きていて、僕が末席を汚して全集の編纂に携わっていると知ったなら、きっと少し吃りながら、君なんかが、と言うだろう。その声の聞かれないのが寂しい。僕が野村と親しくしたのは昭和十七年の夏だった。七月から九月の末までを、森達郎の別荘である軽井沢のベアハウスで過した。最初は色んな連中がいたが、中村真一郎と野村とが気まずくなって喧嘩のような形になった、それで野村だけが別れて小海線の沿線に近い野沢という村に行ってしまった。僕は彼のお守をして野沢まで送って行ったものだ。この喧嘩では堀さんに随分心配を掛けた。だいいち喧嘩といっても、原因がはっきりしない。中村が夕方の薄暗い部屋の中に片足で立っていた、それを野村が見て幽霊かと思い、びっくりして蒼くなった、というのが発端だ。野村はあれはわざと僕をおどかしたのだと言うし、中村はダンスの練習だと空うそぶいている。中でも一番滑稽だったのは、ベアハウスの二階の僕の部屋に僕が野村を呼んで、中村て奴はとかくああいう悪い趣味があるんで、あいつはつまり|ひょうげてる《ヽヽヽヽヽヽ》んだ、とか何とか説明したのが、煖炉の煙突を通して下にいた中村に聞えてしまい、誰がひょうげてなんかいるものか、と逆に怒られる始末。堀さんに仲裁を頼んでも、堀さんも面倒くさいことは厭だという顔で、結局、野村が負けて野沢へ引越した。  九月になって皆がそれぞれ帰京し僕ひとりが残ると、野村もまたベアハウスへ戻って来た。二人で朝は勉強(野村が詩を書き出したのはこの頃だ)、午後は葛巻さんのとこか堀さんのところへ遊びに行く。夜は煖炉に火を燃して二人で内輪の話をした。彼は或るお嬢さんに恋愛していて、もう夢中だった。そのことは彼の詩集を見ると分る。が、堀さんのところではそんな内輪な話はしなくて、その夏出版された「幼年時代」のことなどが主に中心になった。堀さんは頗る愉しげだった。この本は気軽な息抜きのような作品だし、そこに書かれた昔のことがらを口にするのも愉快そうだった。ところが、秋めいて来た或る朝、野村と僕とは裏の林にバケツを下げて栗拾いに行き、収穫が尠なかったので野村は棍棒でやたらに栗の樹の幹を叩いた。それが身体に悪かったのだろう、ひどい熱を出してなかなか下らないものだから、僕は堀さんのところ、医者、氷屋などを代る代る走り廻った。堀さんはこういう時実に沈着だ。そんなに慌てることはないよ、と言われたから少し落ちついたものの、それでなかったら僕まで熱を出してしまったかもしれない。僕が十月になって急に上京した時、野村はもうけろっとしていた。  日附なし  堀家の書庫(これは今年新しく庭の隅に建てられた夢殿風の建物だ。白い壁が陽に映えて美しい。堀さんは書庫開きを待たずに亡くなられた)の整理箱の中に、大正十四年上条松吉宛ての堀辰雄の葉書が三十三枚、取り纏めて揃えてある。これは頗る興味深い資料だ。この前年の夏、堀さんは金沢の室生さんのところに滞在しての帰り、一日、軽井沢の芥川さんを訪ねられた。大正十四年、つまり大学の一年の時には意を決して、初めて一夏を軽井沢で過そうとする。葉書は六月九日、借りることになっている骨董屋村幸の家でまだ誰も来ていないので、単身鶴屋に泊るところから始まり、九月六日附の「僕もなるべく早く帰りたいのだ。」に終っている。上条松吉は義理の父だが、堀さんはその死後まで実の父親と思い違われていた。このことは「花を持てる女」に詳しい。以下に葉書から少し抄しておく。 「まだ返事の来ない所を見ると、僕の手紙が届かなかつたのか、そちらの返事が行方不明になつたのか、と思ふ。僕は待ちくたびれた。——村幸からまだ誰も来ないこと、仕方なく空家同然の陰惨な一室に不自由な思ひをしてゐることを言つたんだが。実際不自由で気のめいりこむつたらない。朝と昼はパンを食べるが道具(火とか湯沸しとか)がないから紅茶ぬきなのでパンが咽につかへて入らない。水は——みんな裏の小川の水を使つてゐる。だから生では飲めない。雨が降ると顔も容易に洗へない。晩だけは鶴屋で食べる、この時ばかり生心地がする。が恐ろしく高いので、ひやひやしながら。お茶を一日分飲む。晩はいやな夢ばかり見て(陰気くさい室のせゐだ)ろくろく寝られず、だから、昼間ねむい。勉強なんか出来ない。と云つて、散歩もゆつくり出来ない。家をさう長く明け放しにして置けぬから。そして、ここの家には戸締りといふものがないんだ。気味が悪い。」(七月二十四日、二枚続き) 「今、荷物が届いた。手紙も読んだ。オスケツも食べてゐる。しかし、これはお父さんの俳句のやうに不味い。両方とも赤子に与ふべし。……こなひだ、活動写真会があつた。いくらか気が晴れるかと思つて、大枚金二円也を奮発した。果して、この様に元気が出てゐる。涼しいから、本もぐんぐん読めてきた。陰気なのも我慢できさうだ。いたづらに明るくつて騒々しいのより矢張りいい。ただし、夜中に目が醒めて、近所の犬の吠えるのを聞くのと、お茶がのめないのが苦しい。苦しい中でも、戸締りも何んにも無いのに、僕の品物がなんにも消失しないのに、感心してゐる。なんだか避暑地の骨《こつ》を飲み込んだやうな気がする。」(七月二十六日) 「遂に村幸氏来る。だから安心すべし。これから快活な日を送らん。ただ不安なるは、未だ五円の為替の届かぬことなり。以下略。」(七月三十日) 「為替が届いた。でも今日は、祭日で駄目だつた。そんならコンロはいらない。その代り籐椅子が欲しいな。五円でいいのがあるんだぜ。莫迦云へーか。ふん。」(七月三十日) 「またお金の事だが、無駄使はちつともしなかつた、室生さんに奢つて貰つたので、始めてアイスクリイムや菓子を食べた位だ。が、あんまりお金の心配ばかりしてると、折角うまい物もまづくなるので、食べたい物はぐんぐん食べた。以下略。」(八月二十日) 「芥川さんは二十日においでになつた。さうして九月五日頃まで御滞在とのこと。室生さんは今日お帰りになります。——僕もなるべく九月五日頃まで居たいんですが、そつちの御都合はいかが。(但し金の問題也)以下略。」(八月二十四日) 「略。しかし皆さんのお伴で、ほとんど毎日自動車で軽井沢附近を散歩したり、うまい料理を馳走になつて今までにない愉快な日を送つてゐます。」(八月二十八日) 「略。昨晩、自動車で碓氷峠に月見に行つたらまるで花火の晩のやうだつた。それくらゐ、賑やかだ。当分、寂れさうもない。以下略。」(九月一日) 「略。で、この際、どうしても八十円なければ、東京へ帰れぬ。すこし贅沢過ぎたやうだが、勘弁して下さい。なんしろ、一流の生活をみんなとしてゐたんだから。さうして、この八十円のお蔭で、僕もだいぶ一流の人々に可愛がられたんだから。いくらか堀辰雄も有名になつたんだよ。(但し、八十円は最低の予算を云つたのですから、そのおつもりで)」(九月三日)  これらの愉快な葉書とは別に、「一九二五年夏」と青鉛筆で記した大きな封筒があり、中にメモ二葉と、芥川龍之介「越びと」と片山広子「日中」の切抜がはいっている。メモの一葉は「読書 一九二五年夏軽井沢にて」と題し、スタンダアル、メリメ、プーシュキン、A・フランス、レニエ、ジイドの作品名が挙げられ、もう一葉は以下の如くである。——  「父への手紙」のメモ ○映画はグロリヤ・スワンソンの「蜂雀」  オーデトリヤムに於て外人ばかり サイレント映画  とんでゐる蛾が大きくスクリーンに写る(避暑地抒情)  そこで初めて吉村鉄太郎と会ふ それから交友が始まる メリメをその頃よく読んでゐて彼に吹きこむ ○その夏軽井沢に来た人達  室生犀星、芥川龍之介、松村みね子一家、萩原朔太郎妹さん二人、小穴隆一、佐佐木茂索、ふさ ○芥川龍之介「或阿呆の一生」の倦怠、越し人 歌「越し人」 ○片山広子「日中」  夏の末、片山夫人令嬢、芥川さんと一しよに追分にドライヴした折の作 ○芥川全集九巻「軽井沢日記」四八一頁 ○堀辰雄「高原にて」「萩の花」(野茨にからまるはぎのさかりかな、はこのとき書いて頂いたもの ○堀「ルウベンスの偽画」はこの夏のことを取材して美化して小説化したもの  以上の材料やメモを見ると、この夏の記憶が堀さんに「ルウベンスの偽画」を書かせたのみでなく、更に後年、「父への手紙」というような小品(?)をも構想させていたことが分る。確かに、この夏、——憔悴の一小説家と聡明な女流歌人と、そしてその令嬢と初心の大学生との登場する軽井沢の夏は、一つのロマンを形成するに充分である。興味に駆られて、以上を書き写した。  八月六日  書きかけの長篇がさっぱり進まず、堀家へ行って蔵書やノオト類を見る。フランスの新聞雑誌が依然として送られて来ている。蔵書はきちんと整理され、仏語の書物の大部分にはカヴァーをつけて訳名が背に書きつけてある。この冬、堀さんは一々の題名の翻訳と、置き場所とを多恵子さんに指示された、そのことは堀さんをひどく疲労させたらしい。英独仏語のもの、現代日本文学などは母屋に、日本古典、漢籍、趣味書、鴎外漱石鏡花荷風龍之介杢太郎等の全集物は書庫に、それぞれ収められている。一体堀さんは万べんなく書物を蒐める型の人ではない、その代り好きな作家となると集中的に多い。好きな作家は度々変った。晩年はやはりリルケだが、プルウストなども全篇に及んで色鉛筆の跡がある。  日附なし  谷田昌平君再び来り、全集編纂。  作家の仕事の量というものについて考える。堀さんの全集は五巻の予定だが、これは芥川全集の半分だ。もともと堀さんは寡作で通っている。それなのにこの夥しい量のノオト、雑記帳の類。——リルケ関係では大版小版のノオト約十四冊、プルウスト三冊、ルイズ・ラベ袋入二十数葉、モーリス・ド・ゲラン二冊、ユウジェニイ・ド・ゲラン一冊、ウォルター・ペーター一冊、アミエル一冊、ジロードー一冊、ノアイユ夫人一冊、デュ・ボス一冊、ド・ラ・メア一冊、支那古詩二冊、蕉門俳句一冊、更科日記一冊、伊勢物語四冊、マラルメ二冊、ポエジイ(象徴派以後)一冊、軽井沢(案内記及聞書)一冊、大和路二冊、作家別世界文学作品表三冊、十九世紀文学史年表一冊、明治以降作家作品表一冊、荷風抄一冊。これらは纏ったもののみだが、内容はさまざまで、翻訳、研究、読書の備忘、諸家解釈の引用等、中には中絶したきりのもある。これらの他に、数多い断片、創作の下書、手帳。どこまでを活字にして全集に収むべきものか、ちょっと見当がつかぬ。堀さんと葛巻さんとが芥川全集の編纂に当って、どんなにか苦労をされただろうと思う。  こういう何冊も何冊ものノオトを見ていると、今更のように作家の、専門家《ヽヽヽ》としてのメチエということを考えざるを得ない。作品の底にあるものは、純粋化された体験の晶化と、それを裏打する厖大な資料である。これだけのノオトから、堀さんが実際に書くために役立たせられたものは僅かに過ぎないだろう。そして病床にあって、なお孜々《しし》としてノオトを作られた堀さんの脳中に、如何なる未来の作品が現れては消えていたのだろうか。思えば黯然とする。  例えば「随筆ノオト」と題された、鉛筆書の小さな手帳がある。その一頁、——  ○Roman-cercle 三部  ○Contes 五篇   1)万葉小説——an idyl   2)能——a vision   3)明治小説   4)   5)  また他の頁に、——  |五つの物語《ヽヽヽヽヽ》   ㈵神——〔羽衣ト書イテ消〕(脇能物)(a legend)   ㈼男——景清(修羅物)(a history)   ㈽女——松風(鬘物)(an idyl)   ㈿狂——道成寺(四番目物)   ㈸鬼——石橋(切能物)(a fantasia)  これらは、他の頁に見る多くの構想と共に、最早永久に書かれることはない。  八月十三日  夜、堀家。行くのが少しおくれたので、お迎え火を焚いた後だった。電燈を消した室内に、岐阜提燈が仄かな明るみを投げている。蝋燭の灯が堀さんの写真を照している。網戸に蛾のばたばたいう音が聞える。この辺りでは、白い蛾が部屋にはいって来ると、お迎えが来たと言うそうだ。  八月十五日  昨日今日浅間神社で盆踊り。古拙な追分節を聞く。本日矢内原伊作来る。夕食後、皆で座興に俳句をつくる。      新盆   木曾節もいとどのひげの顫へ哉    真一郎   山肌に影かけのぼる夕陽かな     伊 作   萱草や夕は白き旅を行き       昌 平      軽井沢所見   ブロンドの幼女走りぬきつね雨    武 彦  日附なし  堀さんの「一九二五年夏」という主題について。その青春の初めに、新鮮な眼で眺められたこの夏の印象が、直接に「ルウベンスの偽画」を生み、引き続いて「聖家族」を、次いで「物語の女」を、更に発展して「菜穂子」をまで生んだことを忘れてはならぬ。これは芸術家《ヽヽヽ》の主題である。芸術家たらんとする一大学生の眼から、「ルウベンスの偽画」や「聖家族」や「恢復期」や「麦藁帽子」などを書いた作者は、次第に、純粋に作家の眼から「菜穂子」及び三部作の構想を持った「菜穂子 Cercle」(その中に「ふるさとびと」などが含まれる)を書くに至った。これらはすべて、堀さんがその人生の途上に於て芥川龍之介に出会い、また一九二五年夏に、自分をも一登場人物として、ドラマの場に、——芥川さんに於ては悲劇的に、堀さんに於てはやや喜劇的に、——身を置いたことから始まっている。このような出会い、このような体験が、如何に一人の青年を作家にまで成長せしめるか、恐らくそこに芸術の持つ一つの神秘があろう。  堀さんの作品は、一貫して芸術家を主人公とした芸術家小説《ヽヽヽヽヽ》だ。殆ど唯一の例外である「ふるさとびと」は、芸術家小説である「菜穂子 Cercle」の一篇(或いは一長篇中の数章)であることで説明されよう。また「姨捨」や「曠野」のような古典風の客観小説に於ても、女主人公の詩人的性格の設定の仕方は、「物語の女」の私《ヽ》と大差はない。堀さんの小説の美しさも弱さも、堀さんの芸術家としての資質の美しさと弱さとから、直接に生み出されたものだ。  堀さんには名人気質の、江戸っ子らしい凝り屋のところがあった。僕は格別、文学作品の上で添削を受けたことも注意を受けたこともない、だいたい堀さんは先生ぶるのがお嫌いだったから、特に教訓的な話をされたことはなかった。ただ堀さんの行住坐臥、お喋りも、なさることも、純粋に芸術家らしいという気がした。ハイカラな人だったが、きざなところは微塵もなかった。そういう人と作品との関係の密接さが、僕には魅力的だった。たとえ作品の中に小説らしいひろがりが欠けているとしても、人としての堀さんが芸術家というものを狭義に、詩人として、受け取られた以上、僕等はただ望蜀の感を持つばかりだ。しかし十年の後に、最も美しいもののみを以て書かれた小説の例に「風立ちぬ」が、純粋小説の先駆作品としての例に「菜穂子」が、挙げられないと誰が言えるか。  しかしもう一つ、重要なテーマがある、死《ヽ》の主題。そこから、表面的に美しく弱いと思われがちの堀さんの作品を、強靱に支えるものが生れて来るのだ。「一九二五年夏」が「ルウベンスの偽画」を書かせたように、一九二七年夏の芥川さんの死は「聖家族」を書かせた。この二作は何れも堀辰雄の文学的出発を告げるものだ。この後にも、堀さんの愛する人達の死は、直接に作品を生み出す契機を形づくっている、矢野綾子の死による「風立ちぬ」、立原道造の死による「菜穂子」。そして堀さんの弟子である野村英夫も森達郎も、堀さんより早く死んだ。  しかしそれらの死に先立って、堀さんが十九歳で体験した、母親の死も忘れてはならぬ。堀さんのお母さんは、大正十二年の震災の折に、死去された。火に追われて隅田川の縁まで追いつめられた人達の中にあって、堀さんは水泳に巧みだったから、折から中流を漕ぎ渡って行く一銭蒸気まで泳いで行かれた。が、それは既に満員で、舷にかかる避難者の手先を船員が叩き落している。堀さんは万事休したと思ったが、幸いに中学時代の友人が乗り合せていて、助け入れてくれた。火が収まってから、堀さんは父親(「父への手紙」の上条松吉)と共に、三日間というもの、懐中電燈を手に、大川端の死者の群を一々照し歩いて、お母さんの遺骸を探されたそうだ。(この話を多恵子夫人に聞いた。)こういう恐ろしい体験が作家の成長の上に何を与えたか、充分に測定しなければならぬ。  八月二十一日  三日ほど諏訪に旅行して追分に帰って来る。炎暑。もう玉蜀黍が大きい。萩の花が盛り。  日附なし  多恵子さんが今年の冬、日課として俳句をつくって堀さんに見てもらったところ、端から落第と言われて悲観したという話。  堀さん自身に句作があるのを聞かないが、一句、お母さんの位牌の裏に(位牌は微笑院《みしよういん》というのだけが記憶されている)自分の手で彫り込んだ句があったそうだ。   震《なゐ》わが母もみわけぬうらみかな       辰 雄  なおこの位牌はお父さんの棺に入れられて焼けた。  八月二十三日  前川康男君来り、全集の相談。脚註問題決定せず、中村谷田と四人で頭を悩ます。如何にしても立派な全集をつくり上げなければ。  八月二十五日  昨晩は霧が深かった。夜半に、信越線の上り列車が喘ぎ喘ぎ進んで行くのを聞く。油屋の二階でもこのように聞えるものならば、線路を遥かに望むことの出来る丘の上の堀家の一室で、眠られぬ夜に、幾度堀さんはこの音を、——促すような、誘うような、この音を耳に留められたことだろうか。深閑とした夜の中を、遠く汽車の警笛を聞くのは実に耐えがたいものだ。  僕は眠られぬままに、芸術家の生涯について考えた。堀さんは見事な芸術家だった。しかしもし芸術家という言葉の中に、十九世紀的な「呪われた詩人」を指す響きがあるとすれば、それはここに当て嵌らぬ。芸術と人生との何れかを挙げて、芸術を探るために人生を蔑にした人をしも芸術家と呼ぶならば、そんな芸術家が何になろう。芸術家とは何よりも|生きた人《ヽヽヽヽ》でなければならぬ、人生が芸術にまで高まる如くに生きた人でなければならぬ、人生の中に芸術を包容し、その芸術によって日々の生を美しくすることを知った人でなければならぬ。  堀さんは一個の |Visionnaire《ヴイジオネール》 だった、興味を惹く世界は堀さんの脳中にのみあった。「美しき村」の自然は、堀さんが自ら思い描いた世界で現実に存在する軽井沢ではない。「風立ちぬ」の私《ヽ》は堀辰雄ではない。そして堀さんは、自分の生活の中に、調和的に芸術を育てられた。多恵子夫人に対しても、周囲の若い人達に対しても、常に温容で暖かい心を持たれた。芸術家の厳しさ、自らを刺す針を内部に秘めて、ただ自分の作品にのみその針を用いた。その結果、病気と共に過されたその生涯は、寧ろ平静な、幸福そうな外観を示した。生きることの難しさが、これほど愉しそうな、これほど明るい形相を示すに至るとは寧ろ意外な位だ。  堀さんの遺稿の中にあった若書《わかがき》の日記の一節が、眠られぬままに、厳しく僕に迫って来る。  我々ハ≪ロマン≫ヲ書カナケレバナラヌ。 [#地付き](昭和二十八年八月)  [#改ページ] [#小見出し]  信濃追分だより    信濃追分案内      駅  信越本線の信濃追分駅は、小海線の野辺山駅や清里駅が出来てから、高さという点では劣ることになったが、最も高原の情緒を持った風情のある駅の一つだ。海抜九五〇メートル、手前にある軽井沢駅や中軽井沢駅(沓掛という由緒ある古い駅名が、最近この愚劣な名前に変った)に比べると、実に惨めなほど、ちっぽけな停車場だ。しかし駅頭に、浅間山の全景がひらけているし、野草がプラットフォームを美しく飾っている。ここで降りる客はちらほらとしかいない。駅の前には郵便局があるだけで、茶店さえもない。自動車一台待っているわけではないし、下車客はいや応なしに、一キロばかり歩いて街道まで出なければならない。しかし浅間を正面に見て、落葉松《からまつ》の林の中をぶらぶらと歩いて行くのは、実に愉しい。      宿場  追分は、同じ軽井沢町に属してはいるが、旧軽井沢や千ヶ滝の別荘地とはまるで違う。ここは避暑地でなく、古い由緒を持った宿場のあとであり、わずかに街道筋のこわれかけた建物や、「分去《わかさ》れ」と呼ばれる北国街道と中仙道との三叉路に、その面影を残している。  徳川時代に、追分の宿《しゆく》は大名旅行の道筋として、最も繁栄をきわめた。本陣が一軒、脇本陣に油屋と甲州屋とがあり、その本陣や油屋の建坪は、二百三十九坪もあったという。旅籠《はたご》の数が七十一軒、茶屋が十八軒と伝えられているが、今の寂れた様子を見ると、どこにそれだけの家が建っていたのかと不思議になる。それにここは盛大な遊女町であり、男の三百五十四人に対して、女は五百三十四人の人口を持っていた。お伊勢参りと称して、この宿場に二月も三月も滞在し、またここから逆戻りする不届者もいた。何しろこの宿場で、お伊勢さまのおみやげ物一式が整えられたということだ。  以上の統計は、元禄時代の話である。徳川の末期までは、大体繁栄を続けたが、明治二十二年に信越線が開通してからは、まったく昔日の面影を失ってしまった。      村  現在の追分で、宿屋を続けているのは油屋だけであり、あとは二、三軒の雑貨屋があるにすぎない。しかしどの家も、今なお亀田屋、寿美屋、つがる屋、つた屋、若菜屋、つる屋などと家号で呼ばれており、昔ふうの、二階の手すりが前に張り出した広大な屋敷も少なくない。  夏の間、ここは主として勉強や仕事に来る客でにぎわったものだ。油屋を初めとして、町の民家に部屋を借りた真面目な学生たちが、軽井沢なんかとはまったく違った雰囲気をつくっていた。しかし最近は、油屋に団体客が泊るようになり、夏場は、ショートパンツのお嬢さんなどが浅間山そっちのけで騒いだりして、静かな情緒が次第に失われて行くのは残念なことだ。ひとりで散歩を愉しむような気質の人でなければ、ここはあまりに退屈だろう。      林道  追分から浅間登山道があり、赤滝、血の池、石尊山、浅間山へと道が通じている。もっとも足弱な人は、街道から十分も登山道を登れば、これと直角に第一林道があり、そのちょっと先に第二林道があるから、この辺を散歩すればよい。海抜約一、〇〇〇メートルの、高原らしい澄み切った空気の中に、佐久盆地がすぐ前に見え、遠く八ヶ岳を望むことが出来る。秋の七草はもちろんのこと、蝶や野鳥なども多く、ぶらぶらしていればそれだけで愉しい。  この土地を愛した詩人に、堀辰雄や立原道造の名をあげることが出来る。立原はここを主題に、多くの詩を書いた。林道を歩いて行けば、  「水引草に風が立ち、草ひばりの歌ひやまない」  と歌った情景の中に、われわれもひたってしまう。水引草は、水引に似た、小さな|ごま《ヽヽ》のような赤い実のついた草であり、草ひばりは、長く連続して、かぼそい、しかし張りのある声で鳴く秋の虫である。複音で鳴くから、そのいる場所はなかなか見つけにくい。この虫が鳴き出すのは八月中旬からで、季節は既に赤トンボの舞う秋である。      季節  追分は四季とりどりに風情があるが、中で一番つまらないのは夏で、最も趣きのあるのが秋だ。栗の実が次第に実り始め、林の中を歩いていると、時に、音を立てて実が落ちて来る頃から、落葉松の落葉が散り敷いた中に、紫シメジや、シモフリや、牛ビタイなどのキノコ類が顔を出すころまで。紅葉も、マユミの赤い実も美しいし、雉や栗鼠《りす》が、歩く人を驚かせる。道すがら、アケビの実を採って、その歯にしみる冷たさを味わうことも出来る。浅間は毎日のように晴れて、白い噴煙をたなびかせているだろう。  浅間登山道を真直ぐに登れば赤滝に出る。黄濁した、大して見ばえのする滝でもないが、そこまではどんな足弱でも二時間とはかからないから、散歩がてら登れるだろう。滝に行く途中、左手に鈴蘭の野生地があり、五月には一面に白い花を咲かせる。その右手は白樺の林である。赤滝のあたりは、大体、海抜一、三〇〇メートル。  そこから少し進むと血の池に出る。これは濁川《にごりがわ》の源で、やはり黄濁した水をたたえた小さな池である。足弱な人はここから戻ればいいし、少し丈夫なら、石尊山まで登るのはわけはない。石尊山は海抜一、六〇〇メートル。浅間山の山腹に小さな瘤のように聳えている。ここは展望も見事だし、高山植物や野鳥の類も多い。      浅間山  浅間山に登るには、小諸からも、峯の茶屋からも行けるが、血の池から道をとることも出来る。しかし浅間は海抜二、五四二メートルもあって、石尊山と同じ調子で登ることは出来ない。準備を整え、天候を確かめてからにしてほしい。浅間は最近こそ穏やかだが、活火山なのだから充分に注意する必要がある。先日も、二人の登山客が一晩たっても戻らないので、町は捜索隊を出して大騒ぎをした。霧に巻かれると、間違えて火口に降りて行く人もあるそうだ。      山麓  しかし追分の秋色を味わうには、ふもとの林道のあたりをぶらぶらしていれば、それで充分だろう。ここでは秋の来るのが早く、九月になると火が恋しくなる。宿も閑散になり、夕方の汽車で帰るのなら、日帰りも可能だ。ソバ畑の白い向うに、浅間山が煙を吐いている風景は、一日の清遊に人を飽きさせないだろう。 [#地付き](昭和三十一年八月)     新 緑  今日、五月二十八日は故堀辰雄の一周忌です。一昨日東京で、堀さんにゆかりのかたがたが四十人ほど集まりました。昨日の汽車で、多恵子未亡人が追分の自宅へ戻られ、恩地三保子さん、中村真一郎、それに僕等夫婦がお伴をして来ました。晩霜のために桑の葉が枯れ枯れとしていました。今日は明るい新緑のお天気で郭公《かつこう》やほととぎすが頻りに啼いています。お昼から霊前で村の人たちと十人ばかり、しめやかにお経を聞きました。早い一年です。   今日のみは新緑を吹く風ならず [#地付き](昭和二十九年五月)     ノートラ  今年の夏は信濃追分の山小舎で、何となく怠け暮してしまった。ゴーギャンについての論文を書く予定で材料を輯《あつ》めていたが、机の上の画集を眺めるだけでも、もうぞくぞくして来て、原稿を書いてしまうのが惜しいような気さえする。美術批評家というのは随分愉しい商売だろうと、そんなことが羨しくなる。画集を見ているだけなら、いっそ素人の方がよっぽど愉しいわけだが。  それで仕事の方は短い小説を二つ書いただけで、主に虫や蝶を取ったり、庭に草花を移し植えたり、ぶらぶらと散歩をしたり、そんなことで日を過した。健康を保つことが何より大事だと自分に言い聞かせて、それを口実に怠けているのだから世話はない。  同じ追分の堀多恵子さんのところに、中学生や女学生のお客が来ていて、ダイスやトランプのお相手をした。九月になってお客がいなくなると、多恵子さんやうちの細君と一緒にノートラという遊びをやった。これは五人でやるのが一番面白いのだが、人数が足りないから、女中さんも入れて四人でやったり、また三人でやったりする。どうも二人でも出来たようだと思って考えているうちに、多恵子さんが面白い書きつけを探し出して来た。二人でやるノートラの点数表で、堀辰雄の若いお弟子だった森達郎に教わったものだと言う。  多恵子さんは、堀さんと二人でよくこのノートラをした話を始めた。不断やる時は多恵子さんの方が強い。ところが堀さんが散歩の途中で、古本屋の棚の上に何か目ぼしい本でも見つけたとなると、その晩あたり、ちょうど同じ値段くらいの金額を賭けてやろうと言い出す。そうなると堀さんには不思議なデモンが憑いて、いつも多恵子さんの方が捲上げられてしまう。あくる日、堀さんは意気揚々と古本屋へ出掛けるというわけだ。 (因に堀さんは、古本屋とか古道具屋とかで欲しいものを見つけても、その場で直に買うことはなかったらしい。一晩考えても尚欲しいものが、本当に欲しいものだという意見だった。)  これはうまい方法だから、僕も細君に応用したいのだが、何しろ夏の間怠け通して僕のお小遣なんかありはしないから、負けた時のことを考えると危くて容易には切り出せない。万一細君の方で、ちょっといい洋服生地を見つけたから賭けてやらないなどと言い出そうものなら、こっちの方がよっぽど危険な位なのだ。 [#地付き](昭和三十年九月)     王様のお相手  信濃追分にある僕等の小さな山小舎に、今年の夏は意外な珍客が現れて、目下滞在中である。そのために、こっちの生活条件から仕事の進展状態まで、かなりの変化を生じてしまった。  十日ばかし前のことだが、附近の別荘にたむろしている三人連れの東大の学生が「先生、こいつを飼いませんか」と言って犬に綱をつけて引張って来た。話によると、一昨日浅間山の頂上で迷子になった犬で、追分に下りて来る登山客にくっついて、村までお伴をして来た。その晩は村の民家のつた屋さんでご飯をもらい、クマという猛犬の小舎に仮の宿をさせてもらった。このクマはシェパードの雌犬だが、牛の子ほどもあって、ものすごい声で吠えるから人間だって近づけないのに、迷い犬の方は雄犬なので、うまく|よしみ《ヽヽヽ》を通じたらしかった。  次の日は、やはり近所のバンガローに住むH君という若い仏文学者が、冷凍肉のおあまりで誘い寄せて、同じ仲間のK君やS君と可愛がったが、とうとうくたびれて、お向いに住む学生三人に命じて、僕のところへよこしたという寸法らしい。そこで細君と僕とが、この犬を飼うべきか否かで、よりより協議した。  ばかに人なつこい犬で、頭の方の半分にはコリイ種が混っているらしい。尻尾の方の半分は雑種然としている。立ち上ると僕の胸ほどもあるが、気質はまだ子犬の域を脱していない。細君はすこぶる気に入って、舐めたり舐められたりしている。問題は僕等が東京に引揚げる時に、犬をどうするかということだ。  何しろアパート住いの身で、とても飼うことはできないから、東大の学生のK君が犬好きの親父さんと相談して、そのころ彼の家へ引き取るように図ろうと都合のいいことを言ってくれた。そこで夏の間は、僕等の山小舎に珍客のご滞在となったわけだ。  まず名前。なかなかうまい名前というものはないものだ。浅間山で迷子になった犬だから、僕はぜひアサマとつけたかったが、語呂も悪いし、名犬アサマでは少々軍用犬じみている。そこでぐっとハイカラに、フランス語でロア(王様)とつけることにした。ロアというのはトランプのキングだから、人の悪いS君が、「奥さんがクインで先生はジャック」と言った。その通りで、初めは細君が、全責任を持つわよと威張っていたが、次第に労働は亭主の役目となった。ジャックのフランス語はヴァレだが、ヴァレには下男、しもべ、の意味がある。  朝と夕方とに一時間ずつ、散歩に連れて行く。それが早い時は朝の五時半にワンワン吠えて起されるから、ふだんの寝坊もとても寝てはいられない。百三十円の鎖を中軽井沢から買って来て、犬に引張られながら霧の中を散歩するのは、健康にもいいだろう。林の中まで行って鎖を放してやる。  あまり怒ると犬が神経質になると注意されたから、悪戯を始めても怒るわけにはいかない。やたらに飛びついて甘えたがるからシャツもズボンも泥だらけになる。  一緒に歩いても、山で迷子になったコンプレックスがあると見えて、ロアと一声呼べば直に駈け戻るから、その点をせめても自慢にしていたところ、昨日は十人ばかしの女学生に尻尾を振ってついて行ったきり、声を限りに呼んでもいっこう戻って来ない。大いに面目を失した。  つた屋さんに言わせるとバカ犬だそうだから、どうも僕の教育では大して賢くはなりそうもない。先日は散歩の帰りに、小川で水を飲みかけて、二度もざんぶり転り落ちた。こっちは犬のことは無経験だから、溺れはしないかと胆をつぶした。二度まで落ちるというのでは、確かにバカ犬の素質がある。  お坐りやお手では物足りないから、夏の間に芸を一つ仕込むつもりだ。「浅間山」と僕が言ったら、たとえ霧の中でも浅間山に向ってワンと吠えるようにしたい。  ただし散歩中に、林の中に栗鼠がいて、僕が「ロア、ほら」と指で指し示しても、どこ吹く風と僕の顔を舐めるぐらいだから、この芸を覚えるかどうかは保証の限りでない。 [#地付き](昭和三十二年八月)     ジンギスカン鍋  緬羊《めんよう》の肉で、本物のジンギスカン鍋を食わせるから、ぜひ冬も来なさい、と、つた屋のおじさんにすすめられた。決して食いものに釣られたわけではないが、夏や秋に行くばかりでは信州の本当の味わいは分らないだろうと思い、信濃追分の山小舎で、初めて正月をすごす決心をした。そこで少々風邪ぎみなのを押して、妻と二人、暮から出掛けて行った。  暖冬だというが、雪もなく、僅かに浅間山の中腹までが白い程度。ストーヴをじゃんじゃん焚けば、うちの小舎もぞんがい凌ぎやすい。つた屋は土地の旧家だが、そこで餅も、ソバも、毎度の御飯も届けてくれるから、こんな楽なお正月はない、と妻が言った。  そこで小雪の降る正月二日の晩に招ばれて行って、いよいよジンギスカン鍋ということになった。つた屋では、緬羊をたくさん飼っているから、毎冬一頭つぶして料理するのだという。土間に新聞紙を貼りつめ、鍋をかこんで、さて現れ出た肉の分量の多さ。それが、醤油に林檎や蜜柑の汁をしぼり、ニンニクを加えた垂れの中に、びっしりと漬けこんである。つた屋の若主人の話では、若い者が三人よると一貫目は食べるそうだが、僕はもともと少食だから、味をみる程度でけっこうだと弱気なことを言っておいた。ところがいざ始まると、油はとぶ、煙はあがる、肉はまたたくまに焼けて行くから、酒を飲むひまもない。野菜は抜きで、純粋に肉ばかりを詰めこむのだから、どうも箸を置いた時には、妻とふたりで五百匁は片づけたらしい。(どっちがたくさん平げたかは僕は知らない。)つた屋でこれをやると「分去《わかさ》れ」と呼ばれる村はずれまで、うまそうな匂いが漂うそうだ。英雄ジンギスカンのエネルギー源も、ここから出たかと感心した。  実を言うと、暮の忘年会を馬肉屋でやって、少々気味が悪かったあとだけに、緬羊の肉のうまさには驚いた。もっとも、信濃追分の冬暮しに感激したせいもあるだろう。 [#地付き](昭和三十三年一月)     王様の行方  去年の夏の初め、信濃追分にある僕等の山小舎に迷子の犬が現れて、すっかり家族の一員になった話の、これは続きである。夏の間じゅうお相手をつとめ、さて秋になって東京に引き上げる時に、都合よく隣の別荘番のおじいさんが飼いたいというので、犬小舎ごとそっちに移した。何しろすこぶる人見知りをせず、誰にでも甘える犬なので、たちまちおじいさんと仲良しになり、僕等もほっと一息ついた。  おじいさんは一人暮しで、年は七十三という。小柄で痩せてはいるが元気はいい。毎日、畑仕事や花つくりに忙しい。ロアの方はコリイの雑種で、威風堂々、まるでおじいさんの方を鎖で引張って歩くように見える。僕等は冬もこの春も、信濃追分に犬の様子を見にやって来たが、この一人と一匹とのコンビは村でも名物になっていて、なかなかほほえましい風景だった。ロアは冬の間に毛がふさふさ延びて、停車場の秤に乗せたら、二十八キロもあるというのがおじいさんの自慢だった。  今年の夏の初め、久しぶりに信濃追分に来て犬に会ってみると、ますます王様然として来て、大した犬になった。もちろん、僕等の顔を見るや嬉しげにワンというから、それほどのバカ犬ではない。というのは去年の夏、芸を仕込むのに苦労をしたがさっぱり効果がなく、やたら誰にでも尻尾を振るし、土地の人に教わったところでは、首筋の下にぴょんと跳ねた毛の数で、一モク(りこう犬)、二モク(並の犬)、三モク(バカ犬)と区別するのだそうだが、僕らのロア君は残念ながら三モクだった。  しかしバカほど可愛いということもある。  この夏は僕らは俗事多端で、ゆっくりロアと遊ぶひまもないところに、七月二十二日、大事件が突発した。早朝放してやったロアの姿が午後になっても見えず、おじいさんが青くなって飛んで来たから、僕も細君も手分けをして村じゅう探し回った。夕方になって判明したところでは、バス乗場にあるベンチで野宿をしていた行商人ふうの男が、朝早く、鑑札を見てロアという名前を知り、馴々しく呼んではパンをやって手なずけ、沓掛の方面に連れ去ったというのである。目撃者は小学校の小使さんで、犯人は自転車に乗り、十歳ぐらいの女の子を連れ、毛布を持参している。  あくる日、さっそく軽井沢警察署に出掛けた。警察の門をくぐるのはこれが初めてで、あんまり気持のいいものではない。しかもたかが犬一匹である。しかし応対の刑事さんはすこぶる親切で、それでは「盗難届」を出しなさいと言って、届の文句を僕に口述させた。「件ノ人物ハ、単独デ散歩中ノ犬ヲ誘イ、中軽井沢方面ニ向ケテ逃走シタ」といったものである。届の中に「価格」という欄があり、「幾らぐらいです?」と聞かれて、細君がすかさず「二万円」と号した。どうせ拾った犬で、それではあんまりだから、僕が一万円と値切ったところ「だってあんないい犬なのに」と細君は大いに不服そうだった。  さて僕の推理によれば、軽井沢の外人の別荘にでも売りつけたと睨んだのだが、いっこうその気配もない。それから毎日、徒歩或いは自動車をやとって探しまわった。沓掛の少し手前の別荘に、それらしい迷い犬がいると聞いて、おじいさんを連れて大喜びで見に行くと、これがまるで別の犬。それでもおじいさんが代りに飼うと言って、よぼよぼの老犬ながら、目下ロアの犬小舎を占領している。  何てバカ犬だろう、ひとりで帰って来れそうなものなのに、と誰しも言うが、犬の責任よりは泥棒の責任を問うてもらいたい。夏もはや過ぎ去ったが、おじいさんとうちの細君とは顔を合せると、どこにいるのやら、と溜息をつくばかり。山を越えて甲州の方へ連れて行かれたか、新しい主人に尻尾を振っているか。犬の行方を思いやって、細君は浮かない顔だし、おじいさんの後ろ姿も影が薄い。  これは推理小説のタネになりますね、と言った奴がいるから、僕はこん畜生と怒鳴ってやった。人の気も知らないで。 [#地付き](昭和三十三年九月)     噴火  僕が夏をすごしている信濃追分は浅間山のほんの麓にあり、山の眺めは、軽井沢あたりから見るのとは比較にならぬほどすぐれていると思うが、残念なことに、僕の山荘からはそれが見えない。家の北側が藪になって、そこに欅《けやき》や落葉松《からまつ》が茂っているためである。木の葉の落ちる季節になれば枝の間から見通せるが、夏の間はとても駄目だ。その浅間山が近頃だいぶ活動を始めた。  去年の夏、僕がまだカメラに熱を入れていた頃、或る新聞記者と、浅間山噴火の写真を写したら特ダネとして掲載するという契約を交した。そこで今年は、やおら望遠レンズを取りつけたカメラを座右に置いて、待機することにした。こんなことでもなければレンズに黴が生えそうなほど、機械を持てあましている。  某日朝まだき、ドンと爆発して、それとばかりに飛び起きた。さっそくカメラを握りしめたが、何しろ自分の家からは見えないのだから、寝衣のまま表へ走り出すわけにはいかない。着替えをして川っぷちを走って行ったら、近くの宿屋に泊っている女学生たちが、大声歓呼して大喜びしている。快晴の空に煙はむくむく上っている。さっそくカメラを向けたところ、望遠レンズだと噴煙のほんの一部分しかはいらず、これはしまった、標準レンズの方がよかった、と叫んで家へ戻って附け替えて来たが、時すでに煙は天頂高く上って、もはや雲のごとくにひろがっている。女学生たちは手に手に小型カメラを持ち、いまごろ飛んで来た僕をあざ笑う始末。実に朝寝坊のたたりで、彼女たちに特ダネはみんな取られてしまった。  口惜しいからそれから毎日、カメラをぶらさげて散歩するが、トウモロコシの葉がざわざわとそよいでいるかと思うと、静かに灰が降っている、山を見るとどうも噴火したらしい、ということがしばしばだ。音のするのが爆発で、音もなく煙の上るのが噴火だそうだが、浅間山はこのところ音なしの構えで僕をからかってばかりいる。 [#地付き](昭和三十四年八月)     草軽電車  三月は仕事のために信濃追分の山荘に閉じこもった。というと人聞きがいいが、浅間山のふもとのこの土地ではまだ春が浅くて、雪こそ殆どないが夜中は零下九度ぐらいまで下る。日中は雨風が吹きすさんで散歩もできない。おのずから閉じこもって、炬燵の中で仕事をするのやむなきに至った。  久しぶりにおだやかな、春めいた土曜日の午後、旧軽井沢の郵便局まで速達の原稿を出す用事があって、妻と共に出掛けた。夏になれば避暑客の往来する本通りも、軒なみに大戸をおろして、ひっそりと静まりかえっている。本屋と八百屋とパン屋とに寄り、今頃でも開いている別荘はあるかねと訊くと、宣教師ばかりですよと言って、旦那はどちらかねと訊き返した。追分だよと答えると眼を丸くしていた。よっぽど奇特な人間に見えたに違いない。  軽井沢から北軽井沢を経て草津へ行く電車がある。その草軽電車が近いうち廃止になるというのは前から聞いていたが、いよいよこの三月限りと新聞に出ていたから、せっかくここまで来たついでに、乗りおさめに乗ってやろうと妻と相談した。餡パンや蜜柑を買い込んで、とにかく小瀬温泉駅までの切符を求めた。  本線から乗り換えて来たらしい都会ふうの団体客が多勢いた。客車は一両きりで、それに貨車が一台、玩具のような電気機関車が引っ張って行く。三笠を過ぎると急勾配の登りになり、客車はカーヴのたびに今にも壊れそうに軋む。  よく晴れた日で、電車が小浅間をめぐって登るにつれ、浅間山が噴煙をたなびかせながら、すぐ左側に見えて来る、その向うに八ヶ岳やアルプスが遠望され、反対側の窓には妙義をはじめ関東の山々が「たたなづく青垣《あをがき》」といったように重なり合って見える。もっともこの近くの山は葉の落ちた枯枝ばかりで、ところどころ白樺の幹が眩しいように光っている。団体の男性連中はカーヴのたびに窓から頭を出して、電気機関車を撮影するのに忙しい。女性たちは余念なく豆手帳を出して首をひねっている。どうも吟行旅行の連中らしい。  小瀬駅で下りると、上り電車まで三十分の間があると計算していたが、俳人たちがぞろぞろ下りてしまうと客車がからになった。そこで次の長日向まで行くことにし更に眺望を愉しんだ。長日向で交換になる上りの方に乗り移ったが、今度は草津帰りらしいおじいさん、おばあさんの客でいっぱいだ。そこで両手で後尾のデッキにつかまり、もっぱら眼に景色を眺め、口に餡パンをかじった。  実に風情のある電車でデッキから片足をのばすと靴の先に残雪を掠め取ることも出来る。小瀬に着いても乗降客はもう一人もいない。妻が餡パン片手にプラットフォームに下り立ち、バイバイなどとふざけていたら、汽笛一声発車したので彼女は蒼くなった。しかし実にゆっくりしか走らないから大丈夫。 「ああびっくりした。」  妻は空いた座席に腰を掛けて胸を撫でおろした。お向いの席のおじいさんが、それを見ながら新聞紙を破いて、やおら鼻をかんだ。  こんな面白い電車がなくなるのは、まったく残念でならない。 [#地付き](昭和三十五年三月)     高原秋色  毎年、夏が少しずつ早くなるようで、今年は七月から八月にかけて、この信濃追分でもすこぶる暑さが厳しかった。そのうちに小型颱風が相継いで来るようになり、たちまち秋めいてスェーターを引っ張り出して着込み、野分の風が雨にまじりガラス戸を打つのを顫えながら見ていた。そこで旧のお盆になった。浅間神社の境内で十三日から十六日まで毎晩のように盆踊りがある。  三年ばかり前の盆踊りのころに、僕のとこの裏手にある加藤周一の別荘に加藤夫妻とそれにメクレアン夫妻とお嬢さんとが泊っていたことがある。加藤夫人のヒルダさんはウインナびとである。メクレアン氏はフランスはノルマンディーの産である。それぞれ母国語を操って盆踊りの非難と擁護とが始まった。加藤周一は通訳であり、僕はもっぱら聞き役である。  非難は、つまりうるさいということ。なにしろスピーカーで雑音まじりのレコードを掛ける。それが夜の一時二時まで続くのだから別荘の人たちは勉強なんか出来はしない。だいたいこの追分という土地は軽井沢の西のはずれにある部落だが、避暑のためというより夏場を仕事に来る学者が多い。従ってこの四日間ばかりは誰しも毎晩悩まされる。  擁護のほうは、これは村民たちの唯一の娯楽といってもいいものだから、別荘人種も大目に見るべきだという意見。ヒルダさんは文化的水準が低いと言って怒るし、メクレアン夫人はどこの国の田舎でも同じだと言ってなだめるし、うちの細君は(ふだんは亭主と一緒にうるさいわねと称するくせに)大和撫子としてローカル・ダンス・トレ・ビアンなどと片言を言う。亭主連はにやりにやりである。ドイツ語とフランス語と日本語とでそれぞれ勝手にしゃべるのだから、かしましい段ではない。さすが語学に堪能な加藤周一も、とても通訳の舌がまわらない。  メクレアン一家は故国へ帰った。加藤夫妻は、より文化的な野尻湖で夏をすごす。そして今年もまた、盆踊りの季節となった。  今年は連日の雨で、すっかり晴れたのは最後の十六日だけだった。この日は盛況が予想されたので、僕も見物に出掛けることにした。机に向って仕事の出来るのは、余程のかなつんぼに限る。なにしろ「今晩は電気コンロの使用はいっさいお断りします」とアナウンスして、電力はあげてこのスピーカーに注がれる。それも東のはしにある浅間神社の境内から、西のはしの家で寝ている腰の曲ったおばあさんに向けて、せめて寝床の中で音だけでも聞かせて愉しませようという目的で鳴らかすのだから、猛烈きわまりない。  うそ寒い晩で、うちの細君なんかショールに半オーヴァーのいでたち。大きなやぐらの周囲にボンボリに照らされて輪になって踊っている連中も浴衣姿は少ない。去年はものすごい颱風が追分を襲ってやぐらが毀されてしまったから盆踊りは一晩も出来なかった。今年は従って大盛況が予想されたが、存外に人出がないのにびっくりした。村民のお祭りと称するが、実は別荘の連中の方がよほど熱心で、この晩は一年ぶりに顔を合せて挨拶する、という情景があちこちで見られる筈だった。  土地に固有のものに「追分馬子唄」という蹄の音パカパカ、鈴の音シャンシャンと伴奏入りで歌うのがあるが、これは如何にせん踊れない。歌は油屋旅館の誠さん、馬の蹄は井戸屋の茂ちゃん、鈴は豆腐屋の信ちゃん、三人一組で、これが盆踊りの晩の真打ち。そのほかはすべてレコードで、木曾節、伊那節、東京音頭、平和音頭といったものばかり。うちの細君はせっかくのローカル・ダンスも木曾節しか踊れないので、別荘のおしとやかなお嬢さんがたと見物しながら「木曾節やってえ」などと黄色い声を出していた。お気の毒さま、曲はいつまで経っても「今夜のくるのを待っていた」の繰り返し。 [#地付き](昭和三十五年八月)     閑居の弁  信濃追分で夏を過すようになってから、もう幾年にもなる。夏ばかりではなく、冬休みや春休みにもさっさと逃げて来るようになった。兼業の教師業が許す限り、最大限にこの土地を利用している。出来ればもっとしばしば来てみたいと思うが、まさか隠居をする年でもなし、こうして慌しく東京との間を往復するのが、ちょうどいいのかもしれない。  教師を兼ねているから月給を貰う(但し私立大学の教師の月給が安いことは御存じの通り)、月給がある以上、気の進まない原稿はお断り申し上げることが出来る。なるべく少ししか書かないこと、これが僕のせめてもの我儘である。しかし引き受けたからには全力を奮う。何しろ学校の講義のある時期は、その準備に追われて思うように原稿を書くことが出来ない。それに僕の速度は一日にせいぜい五枚である。  そこで夏休みは書き入れ時で、信濃追分に引籠るといえば仕事ばかりしているようだが、実はそうでもない。今年の夏は邦文和訳(と自称する古典の現代語訳)と五、六年かかったゴーギャン論の校正刷とを仕上げなければならないのに、八月もそろそろ下旬というのに、まだどちらも半分までも行っていない。一体何をしているんだ、と本屋さんに叱られそうだが、まったく我ながら何をしているんだろう。長篇を二つ計画していて(それがまたお恥ずかしいことに指折り数えるほど幾年にもなる)、リルケ流に経験の蜜を貯えているとでも言えれば洒落ているのだが。  信濃追分といっても山の中ではないから、バスなら四十円、車なら五百円張り込めば旧軽井沢へ行ける。そこへ行けば東京風俗が持ち込まれていて、作家の眼にも大いに有用なことは分っている。実はこの原稿を書くために、眼を光らせに行くつもりでいたが、おっくうなので延び延びになっているうち、締切が来てしまった。旧軽井沢は一年また一年といよいよ繁昌して、寄せては返す人波といった具合だから、僕の気に入らない。だいたい一夏に三度とは出掛けない。室生犀星老にお目にかかり御挨拶申し上げるのが、何となく年来の恒例になってしまった。室生さんのところでお茶を頂き、それから大通りをぶらぶらし、ちょっと本屋にはいり、女の子たちを横眼で睨んで、それで御帰還。今年は今までのところ、室生さん宅へ一回、それから映画の試写があるというので、僕はちっとも気が進まなかったが、細君が行きたがるので御輿を上げた。つまり二回きりで、こんな出無精の亭主と一緒では細君も可哀想だ。  おっくうとか出無精とか言ったが、僕がこんなに引籠りがちになったのは、説き起せばもう随分と昔からで、一種の心臓神経症のせいである。外出に伴う不安感情によって起り、昭和十六年に最初の発作があったのだからもう久しいものだ。戦後僕は足かけ八年間サナトリウムにいたから、その間は何とか持ちこたえたが、そこを出たらまた元通りになってしまった。近頃はもう諦めて、表へ行かない限り大丈夫と、家の中でとぐろを巻いている。発作を起した時の苦しさは経験のない人には分るまいから、僕はこの話をすることを好まない。  だから僕が信濃追分でじっとしているのは、決して自然を愛するからでも、仕事にいそしむからでもない。つまり已むを得ないのだ。  生活というのは、意識的に愉しくしようと思えばいくらでも愉しくなる。こんなところに長くいてよく飽きませんね、と人から言われるが、それは心構えの問題でしょう。僕は子供っぽいほど多趣味で(長続きはしないが)蝶を取ったり虫を取ったり、木や草花を移植したり、カメラをひねくったり、双眼鏡で野鳥を探したり、暇潰しをするには事欠かない。この頃はもっぱら油絵に凝ることにしたが、これは目下、凝ってるぞ、と人に宣伝する段階で実技は大して伴わない。油絵というのは今迄にやったあらゆる趣味の中の最高級で、始めたら面白くて文字通り寝食を忘れるから、仕事の忙しい間はあまり手が出せない。  加えるに、追分の宿屋や民家に滞在する若い友人たちが、せっせと話をしに来るから、我が家は次第に梁山泊じみて、天下の形勢を知るに不足はしない。村の人たちと世間話をするのが、これまた面白いものだ。この小さな部落にも諷刺小説的な材料は無数にあるが、僕が書いたのではお門違いと言われそうだから、分を守っている。実を言えば、別荘かた村かたの有力者が総動員される滑稽小説に筆を染めたこともあるのだが、モデル問題でも起して村八分になっては詰らないので、篋底深く秘めてしまった。だいたい信濃追分のような辺鄙な場所に別荘を建てるような人には、奇人変人が多いことは勿論である。村かたも信州人的気質の持主ばかりだから、僕の滑稽小説が面白くなかった筈はない。  さて、その変人の一人である僕は、格別仕事にいそしむわけでもなく、一日五枚などと公称して、実は何をしているのかということになる。白状すれば、朝寝坊をする、昼寝をする、その合間に少しばかり客と話をしたり、蝶々を追っかけたりしているのだ。半睡半眠《ヽヽヽヽ》と名づけているが、一日の大半はごろごろして、眠れるが如く覚めたるが如く、睡眠的思考《ヽヽヽヽヽ》と称するところの瞑想に耽る。|夢の造型《ヽヽヽヽ》ということもある。こういう勝手な名称をつけるのも悪癖のうちだろう。  まず説明すると、僕はサナトリウムに長らくいたせいか、横にならなければ本を読むことが出来ない。横になると眠くなるのは人情というものだ。そこからして、人工的に夢をつくるという愉しみを生じる。つまり造型する。もっとも夢なんてものは意志通りに行かないからこそ夢なので、まず成功はしない。たとえ成功しても覚めたあとは綺麗に忘れているから同じことだ。けれども、例えばブルトンの「魔術的美術」などという画集を見ながら、魔術的な夢を見ようなどと計画するのは、僕にとっては旧軽井沢のメインストリートを歩くよりもよっぽど愉しいのだ。  僕が外出しないのは、前にも言ったように已むを得ない事情があるからだが、風俗小説的好奇心に乏しいという性情も作用しているだろう。僕が好奇心を持つのは、どうも失われた世界、人工的な芸術、精神的風俗といった類のものらしい。書物の中に書かれた事実を、夢の造型術によって、黴くさい活字の面から生きた現実として喚び覚ますことの方が面白い。学者の精密な作業によって、頁の上に定着された客観的な事実を、僕の方は勝手気儘な空想、或いは聯想作用を伴いながら、主観的な世界につくり変えるのである。  僕の興味はこの頃、原始芸術とかエジプト美術とかの方向へ行っているが、これは学問的情熱というわけではない。つまりは小説家の材料というにすぎない。それは決して小説のたねにしようという魂胆からではなく、それによって僕の内部世界を豊かにしたいというだけのことだ。その意味では、僕が山の中にいるからといって、小説家失格ということにはならないだろう。 [#地付き](昭和三十五年八月)     キノコ  キノコの季節は十月から十一月にかけてである。今年は夏の終りに胃病を患って、信濃追分の山荘で予後を養う破目になったから、キノコの出初めからお終いまで、ひたすら観察した。  元気な時なら、山野を跋渉して自らキノコを見つけ出すのだが、寝たり起きたりの身ではそうもいかない。村の人に頼んで採って来てもらう。但しその方が収穫が多いのは当然だから、秋の初めの初タケから、黄シメジ、紫シメジ、チョコタケを経て、浅間山に雪が降りシモフリが採れるまで、豊富に山の幸にお目にかかった。  賞味した、と言えないのが残念である。もっぱら匂いを嗅ぎ、水彩絵具で写生するばかり。それでも細君が僕を憐んで、半分ほどは日に乾して貯蔵したから、正月ぐらいになったら、そろそろ食ってもいいだろう。見るばかりでじりじりするのは、かえって胃に悪かろうと思う。 [#地付き](昭和三十五年十一月)     人とり川  夏が終って東京へ引上げる間際に、胃を悪くして岩村田にある病院に入院したりしたものだから、相変らず信濃追分でぶらぶらと静養している。半病人らしく寝たり起きたりしているうちに、季節はどんどん過ぎて、早くも浅間山の頂きには根雪が消えず、毎朝ネギ畑に霜が白い。芝生はさむざむと枯れ白樺や落葉松の葉もすっかり落ちた。というような光景を硝子戸ごしに眺めながらお八つはまだかとか、今晩のおかずは何だいとか、細君にやたら訊くものだから、まるで子供みたいとひやかされて、亭主の権威がだいぶ失墜した。目下は回復期で食欲はあるし、禁酒禁煙と来ているから万事退屈である。お天気のいい日には写生道具を持って散歩に行くが、あまり遠出は出来ない。慎重だといえば聞えはいいが、腹八分の胃腸病食では歩くだけ腹がへるから。  気象台の発表では、軽井沢は零下三度という。朝のうちは顫えていたが、日が射すと暖かくなった。その日の午後、田中澄江さんがお嬢さんを連れてお見舞いに来て下さった。沓掛の別荘からわざわざ足を伸ばしていただいたのは有難いが、来るなり長くお邪魔をしちゃ悪いと言って、そわそわしておいでになる。こちらは珍客を歓迎したくても、向うのご都合もあることだから、小一時間でお帰し申した。車のところまでお送りしましょうと、細君と二人で川っぷちを送って行った。田中さんは山登りで足を痛めてまだ杖を離されないし、僕は散歩というとステッキを振りまわすから、のろのろと進行しているのを、お嬢さんが写真を撮ると言って足場を捜すうち、ひらりと川を飛び越えた。  川というのは少々大袈裟かもしれない。これは正式には御影用水といって、千ヶ滝から旧御影村まで通じている掘割である。慶安三年の完工というから古い。この僕等の山荘の前を流れているのは上堰《うわせぎ》と呼ばれ、もう一つ、街道と信越線の線路との間のは下堰《したせぎ》と呼ばれて、二つの流れは追分のはずれで合流する。千ヶ滝の清冽な山清水を運んで来るのだから、流れは速く冷たく、夏などはビールを冷やすのにいい。ただし川幅はせいぜい一メートルから一メートル半である。  ところで田中さんのお嬢さんが、対岸めがけてひらりと飛んだ瞬間に、僕がわっと大声を出したものだから(何で大声を出したのか、我ながら不思議だが)、彼女の方もびっくりして、手にしたカメラの皮ケースを川の中に落っことしてしまった。すわとばかり僕がステッキを伸ばしたが、ケースはくるりとまわって流れ出した。  この川は少し先に小さな橋が三つある。一つ目はうちの前のフキ橋(川っぷちに蕗が生えている)、二つ目は亀田屋の地所をつなぐツツン橋(そばの林に日ガラが来てツツンツツンと鳴く。いずれも僕の命名)、三つ目は登山道に掛ったまっとうな名なし橋で、その先はすぐに滝になり続いて暗渠になっているから、落し物流れ物はそこまで行ったらもうおしまいだ。しかし途中の橋ですくい上げれば大丈夫と、僕がまだ悠々としていると、女心はせっかちなもので、細君はすぐさま土手っぷちにひざまずき、右手を伸ばして、流れよるケースをようようつかんだ。——と思いのほか、ケースはするりと身を躱し、彼女はきゃっとばかり片腕を先に水中に転落した。——ということになっては大変。機を見るに敏な僕が、この時早く駆けよりざま、細君の左腕をむずと掴んで食いとめた。しかし想像してもごらんなさい。右腕は肩口まで水中に没して、上半身は、殆どさかさまである。彼女の全体重はまさにこの左腕にかかっている。そして彼女は美容的見地から肥りすぎないように肝胆を砕いているとはいえ、まず人並み以上の重さであるのに、僕は生れつきの痩せっぽちが、病気をしてますます痩せ細っている。  しかし愛妻がどんぶり行きそうなこの際、力は体重とは比例しない。一呼吸で、僕は軽々と彼女を引張り起した。  バカだなあ、と片側びしょぬれの彼女をせせら笑って、さてケースの行方を眺めると、われわれ夫婦では埒が明かぬと見たお嬢さんは、この時早くざんぶと川の中に飛び込んだ。      *  これが夏ならば腰までの深さだが、目下は水涸れで都合よく膝までしかなかったから、お嬢さんは川の中をざぶざぶ歩いて、濡れたケースを手にしてこちらの土手に這い上った。  勇敢なお嬢さんですねえ、と田中澄江さんにお世辞を言った。しかしこのままではお帰しするわけにもいかないから、スェーターの片袖を濡らした細君は、スカートと靴とをびしょびしょにしたお嬢さんを連れて、着替えをするために我が家へと引返した。  その間僕と田中さんとは二人ともステッキに凭れかかって、日向ぼっこをしながら、川のそばで浅間山の雪などを眺めていた。  この川はね、室生犀星先生のご命名によれば、人とり川というんですよ。  僕は受け売りの説明をした。室生さんはこの川っぷちで、怖そうに眉をひそめて、「人とり川と言うんじゃ」とおおせられた。どこの田舎でも、子供の落ちるこうした小川があるものだ。現にここでも、子供や子山羊が流されたことがある。登山道の名なし橋で食いとめなければ、まず命はない。子供は助かり、子山羊は水死した。水の勢いが速いから、水中で足を滑らせると大人でも容易に起き上れず、どんどん流されるということだ。  お客さまが帰ったあとで今度は細君に大いに恩を着せた。あれは人とり川というんだよ、君なんか重いから、頭から先にぼしゃんと行って、ツツン橋ぐらいまで流されたに違いない。僕はまさに命の恩人だぞ。ありがたく思え、御馳走をつくれ。  その晩は御馳走が出たが、細君はまだびっくりのショックが残っていて食欲がないと言った。僕は大いに食欲があった。      *  その次の日のことである。この朝は寒気凜冽、気象台の発表では零下八度という。午後、細君が岩村田まで買物に行った留守に、その町のラジオ屋さんが、かねて頼んでおいた電気器具を届けに来た。入院中に貸しテレビを借りていたころからのお馴染で頭の毛はだいぶ薄くなりかけているが、気の若い人だ。もっとも、年も若いんですよと自称した。  ついでにラジオのアンテナを張ってくれた。今日は日のあるうちに帰るので楽です。この前は日は暮れる、霧はかかる、ひどかった、というような話をし、道具袋をかかえて川っぷちのスクーターの方へ歩いて行った。そこで僕も、一休みしようと炬燵の中にもぐったが、表の方がいつまで経っても静かである。だいたいあのスクーターという奴は、ばかでかい音を立てて発車するから、平穏をおびやかすこと甚だしい。油でも切れて動かないのかなと、持ち前の好奇心で、のこのこと縁側に出て、硝子戸ごしに眺めやった。  落雷のために幹の下半分しか残っていない枯樹が川っぷちにある。それが川とすれすれに立っている。その蔭のところでラジオ屋さんがいつまでももたもたしているから、山田さん、ちょっと来て見てご覧。一体どうしたんだろう、とお手伝いさんを呼んで見物した。  あらあら変ですよ。手に長靴を持ってますよ。あら長靴をさかさまにして水をこぼしてますよ。  そいつは大変だ。川に落っこちたんだぜ。早く行って加勢しておあげ。  お手伝いさんが走って行ったあとから、僕も、やおらステッキ片手に門のところまで出て行くと、両手に皮の長靴をぶらさげ、裸足のまま、ラジオ屋さんがすごすごと歩いて来た。スクーターの向きを変えるはずみに、どぼんと人とり川に転落したのだそうだ。  ストーヴの火で小一時間かかってズボンを乾かした。さぞや水が冷たかったろうと僕も心から同情したが、とっぷり日が暮れてから僕のゴム長をはいて、スクーターの爆音も悲しげに帰って行った。  細君が戻って来たので、三人目の被害者の話を聞かせたが、この日の晩飯には僕も細君も大いに食欲があった。 [#地付き](昭和三十五年十二月)     某月某日      某月某日  日課の午後の昼寝をむさぼっていると、猛然たる大音響。それやったぞ、とさっそく飛び出した。残念ながら今日は朝から浅間山のあたりは雲に覆われ、この分では噴煙も見えないかと諦めていると、冲天高く、雲の切れ目に蒼空が覗いているところに、みるみる真黒な噴煙が層をなして昇って行く。大したことなしと見きわめて家の中に引上げ、さて暫く経つうちに、トタン屋根にパタンパタンと落ちて来るものがある。雹が降って来たかと見守ると、何とこれが小石の雨。天地晦冥、小鳥も虫もぴたりと啼きやみ、さあ降るわ降るわ、大きなのは腕時計ぐらい、小さいのは小豆ぐらいのが、降ったり跳ねたり、硝子窓にぴしぴしと当る音が凄まじい。山鳴りもしきりと続く。そのうちに、砂礫と雨雲とが摩擦されて電気を生じたのか、たちまち大雷雨となって、ゴロゴロピシャン、雨は雨でさっき降った小石を押し流す勢い。じきに停電して、これが深更に至る。      某月某日  庭に出て、先日の浅間山の小石をひろう。噴火の直後に、営林署に勤める人が石尊山のあたりへ仲間を探しに行ったところ、両手でかかえる程の大石がごろごろしていて、そこに雨が当ると、石の熱気にシュウシュウと水蒸気を上げていたから、恐れをなして舞い戻ったそうだ。僕のひろった小石もまだ生暖かいような気がするくらいだ。      某月某日  噴火の被害は行方不明一人ということだが、雷に会った人の話を聞いた。停車場の先の別荘にいた若い御夫婦が、テラスに椅子を並べて仲良く雷見物をしていた。旦那さんは敷居のレールにスリッパを乗せ、奥さんは御主人の肩に手を掛けていると、たちまち眼の前の樅《もみ》の木に雷が落ちた。それがレールに感電して、お二人はもんどり打ってテラスの上に投げ出され、旦那さんは一晩じゅう半身不随、奥さんの方は片腕だけ不随になったそうだ。家じゅうの電球はこっぱ微塵、ソケットやコンセントのある箇所は壁に大穴が明いたというから、被害甚大というべきだ。  このあたり、信濃追分の里は雷の名所で、僕なんかも二階の雨戸を一枚あけて雷見物は欠かさない方だが、これからは少しつつしむことにしよう。命あっての物だねである。      某月某日  別荘の人たちがそろそろ引上げ始めたからだいぶ閑散となった。散歩に出掛けても、もう誰にも会わない。オミナエシやワレモコウが一面に茂って、尾長がギャアギャアと喚いている。浅間山の山肌が白っぽく変色しているが、これは噴火のときの灰がつもったためらしい。そういえば我が家の前の小川は、あれ以来すっかり濁って、いまだに水が澄まない。たしか噴火の翌日、川っぷちを歩いていたら、水の澱んだ草の間に傷を負った小さなハヤが身をくねらせていた。石に打たれたものと見える。この小川で魚の姿を見かけるなど嘗てないことだ。  夜になると、草ひばりのすだく声が絶え間もなく四方に聞える。これは夏も終ったしるしだ。今日は散歩しながら水引草を取って来て花瓶に活けた。今晩はきっと冷えるだろう。 [#地付き](昭和三十六年九月)     金魚とドジョウ  この春の休みに、信濃追分にある山荘のために石臼を一つ買った。村の建具屋の若い主人が、どうです、いいのを見つけましたから買いませんか、と言うので、安ければ持って来いと命じたら、小型のトラックに乗せて運んできた。さして図体の大きなものでもないが、一メートル足らずのほぼ立方体で、中を真ん丸く刳《く》り貫《ぬ》いてある。何でもむかし、水車で米を搗くのに使ったもので、由緒のある品ですと建具屋が自慢した。  そいつをトラックから突き落し、ぐるぐると縄を掛けて、大の男が二人がかりで丸太棒に吊して、えいとばかり持ち上げたら、はずみに棒の方がぽっきり折れたのにはびっくりした。さいわい怪我はなかったようだから、今度はころがし、ころがしして庭の片隅に埋めた。  夏の休みになって行ってみると、雑草が生い茂って、まるで落し穴みたいになっている。そこで草を刈り、水を張ってみると、小さいながら白樺の葉影などを映して、狭い庭には頃合の池とまではいかないが、こちらはとにかく一城の主になったような気がした。  前に村にいたことのある若い衆で、顔だけは馴染の男が、或る日、魚を買ってくれといって勝手もとに現れた。東京へ勤めに出て、休暇で帰って来たのだそうだが、この男の趣味は、湯川という近くの川で、水にもぐって魚をとることだ。銛で刺すこともあれば、素手で掴むこともあるという。一度ご案内します、と言うが、僕は出無精のうえ金鎚と来ているから、お伴はご免だ。しかし持ってきてくれたハヤとヤマメとは、いい値で買い上げた。この男がそれからも再々やって来る。休暇じゃなくて、くびになったのかもしれない。或る日、生きたフナとドジョウとを持っていたから、そんなもの食うのは厭だ、と僕がこぼしたら、例の石臼に入れて飼うことにしましょう、と細君が仏ごころを出した。  この夏は僕は身体の調子が思わしくなく、仕事は中止、散歩さえも控えめにして、もっぱら運動と称してバケツで水を運んで石臼の水替えをするのを日課にしていた。そこに魚が泳げばますます池らしいだろうから、名案だ、君でもたまにはうまいことに気がつく、と細君を褒めてやったが、数日後に浅間山が爆発して、この辺の里に小石と灰とを降らせたので、せっかくの魚がみんな死んでしまった。  その埋合せに、細君が沓掛に行って、金魚を十匹ばかり仕入れて来たから、それからは毎日、金魚に麩《ふ》をやって暇をつぶした。夏休みが終って、いざ東京へ帰る段になり、石臼の水をさらってみると、金魚が八匹になんとドジョウが一匹、バケツの中で浮いたり沈んだりしている。隣の別荘にある本物の池に逃がしてやるつもりでいたが、この期に及んで未練を生じた。  なんとか持って行けないかね。  そうね、マヨネーズの空き壜があるわよ。  そこで金魚を四匹とドジョウを一匹壜に入れ、急行列車に持ち込んだ。狭いところで押し合いへしあいだから、さぞ驚いただろう。汽車に乗ると、さっそく蓋を取って新鮮な空気を呼吸させたが、トンネルをくぐって横川まで来た時には、一匹残らず腹を出してあっぷあっぷ始めた。  おいなんとかならんかね。どうもあぶなくなって来たぞ。  いいものがあるわよ。  隠し持ったる細君の気つけ薬というのが、ビタミンCの錠剤で、たまに舐めると、酸っぱさに飛び上るという代物で、レモンの汁をかためたようなこの薬は、色白になる妙薬だと称して細君が愛用している。  そんなものが金魚に利くもんか。  まあ見てらっしゃい。  細君がせっせと大粒の錠剤を噛み砕いて、マヨネーズの空き壜に入れたので、なかの水がまっ黄色になった。するとみるみるうちに金魚が元気になった。ビタミンCをのまされた金魚もびっくりしただろうが、僕もびっくりだ。お蔭で人も魚も無事に上野に着き、目白のアパートへ帰還した。  細君はさっそく金魚鉢を買って来る。ついでに彼女が、近所の古本屋から「金魚のすべて」という本を五十円で買って来たから、二匹はリュウキンでもう二匹はただの金魚だと分ったが、田舎育ちで元気がよく、眼を離したすきに一匹が金魚鉢から飛び出して、はかなくなったのは実に残念だった。  ところで硝子の鉢に入れて鑑賞するうち、ドジョウの方が次第に人気をあつめた。シマドジョウというありふれた奴だが、昼寝をしたり立ち泳ぎをしたり、目にもとまらずくるくるまわったり、金魚みたいにただ口をぱくぱくさせているのと違って、動作に愛嬌があり、いくら見ていても飽きない。こんな可愛い生きものを、なぜ人は飼わないのだろうと不思議になる。  ドジョウを飼うなんて、あなたくらいのものよ。  しかしこの方が美しいぜ。  だから変人だって言われるのよ。 と細君が僕をやりこめた。 [#地付き](昭和三十六年十月)     信濃追分と「菜穂子」  信濃追分は今では軽井沢町追分である。それも今年から別荘番号がついて、軽井沢町何番と書くだけで郵便が来るそうだ。沓掛が中軽井沢と改名したあとで追分を西軽井沢と変えたいという案が一部にあったらしいが、村かたも別荘かたも一斉に反対して、さいわい立ち消えになった。せっかくの昔からの地名を変えてまで、何も軽井沢にあやかることはないだろう。ここはやはり浅間山麓の追分村という古い宿場の感じを、いつまでも残しておきたいものである。  それでも別荘や寮が年々にふえて、だいぶ昔日の面影がなくなった。前には千メートル林道のあたりの草原には桔梗や撫子や萱草が咲き乱れていたものだが、この頃はむやみと人ばかりふえて、花は片っぱしから折り取られてしまう。学生諸君が隊をなして、浅間登山道を往ったり来たりする。街道には自家用車がぞろぞろつながる。だから私は、夏の間はあまり散歩にも出ないことにしている。前には信越線の蒸気機関車の響きが、夜になると一種の風情を添えて聞えて来たが、この頃はみんな電車に昇格して、音もなく疾走する。その代り自動車やオートバイの轟音が、中仙道つまり国道十八号線から、ひっきりなしに聞えて来る。  と言っても、私はこの信濃追分の風物をやはりこよなく愛している。堀辰雄の「菜穂子」は戦前のこの村の静かなたたずまいを伝えていた。この小説は、御存知のように富士見の療養所にいる菜穂子と、追分の宿屋にいる都筑明の二人の人物を平行して描いているが、小説は春に始まり冬に終るので、夏の間の風景描写は殆どない。春の驟雨《しゆうう》に雨宿りした氷室《ひむろ》で、明が村の娘とあいびきするところや、冬になって雪煙が冷たい炎のように走って行くのを明が見詰めているところなどは、如何にも追分らしさを示した部分である。氷室と言えば、この小説で有名になったせいでだいぶ見物客が押し掛けたらしい。そこで目先の利く人が、その場所(国道十八号線の途中にある)に川魚料理の店か何かをつくったそうだが、肝心の氷室の方は、いまさら天然氷の需要もなくて、ただの生簀《いけす》になってしまった。それでなくても、ガソリンスタンドやレストランが到るところに建ち始めている。 「菜穂子」に俟つまでもなく、追分は遅い春、秋の半ば、そして冬の初めがいい。夏はどうも軽井沢の出店のようになって来た。そこで昔の追分の夏を知るためには、堀辰雄の友人であり弟子であった立原道造の詩や文章を見るに如くはない。「菜穂子」の都筑明には立原の面影が差しているが、恐らく立原の日記や書翰が、この小説の制作に参考とされていたのではないかと私は考える。   夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に   水引草に風が立ち   草ひばりのうたひやまない   しづまりかへつた午《ひる》さがりの林道を  この「のちのおもひに」という詩の一節ほど、信濃追分の夏から秋にかけて、つまり八月下旬から九月上旬にかけての感じを出しているものはない。空が青く澄んで、浅間山の噴煙が東になびくのを見、昼の間でも草ひばりがか細い声で鳴き続けるのを聞く時などに、私はこの若く死んだ詩人のことを思う。林道の草むらの間に、この詩を刻んだ小さな石碑でもつくりたいと、時々空想する。但し、ごくさりげなく、ごく目立たぬように。  信濃追分は堀辰雄のせいで有名になったと言うことが出来る。しかし堀さんと無関係に、この土地の好きな人も大勢いる筈である。文学散歩の名所というのでなしに、この古い宿場を愛してもらいたいと思う。人間のつくったものは移ろい行くが、鳥の歌、虫の声、野草のそよぎ、そして落葉松の林の彼方に見る浅間山の夕焼は、昔も今も変らないからである。 [#地付き](昭和三十九年八月)     秋近く  夏の間を信濃追分で過す習慣がついてから、もう十年になる。今年は少し事情があって、例年よりもおそく七月の末にこちらに来た。従って初夏の趣きを味わうことが出来なかった。郭公は七月いっぱい啼き、奇妙に八月一日になるともう聞えなくなるが、今年はその声を殆ど耳にすることがなかった。そして八月も十日過ぎになると、草ひばりが草むらで夜もすがら鳴くようになり、月おくれのお盆が終れば、昼の間でもかぼそい声ですだくのが聞える。するともう早い秋である。七月の中ごろ、私は靖国神社のお祭りに縁日を見に行ったが、虫屋の屋台ではこの草ひばりを一匹七百円で売っていた。それから一月たった今、私は家のまわりじゅうに草ひばりの鳴声が充満している中で、これを書いている。スイッチョも鳴いているし、コオロギも鳴いている。日中の気温はまだ高いが、日が落ちるとさすがに爽涼の気がみなぎる。  信濃追分は中仙道の古い宿場である。江戸時代には戸数五百余、遊女屋や茶屋の数は五十戸と言われた。明治になって信越線が開通するようになると、この宿場はたちまちさびれて、戸数は盛時の十分の一ほどに減ってしまった。大正四年発行の「北佐久郡志」を見ると「近年夏季停車場設置せられたれば、避暑客の来遊するあり、漸く復活の気運に向わんとす」とあるが、それから五十年たった今では驚くほどの変りようである。追分宿の面影をさがすには、よほど注意をこめて旧街道を歩かなければならない。  中仙道と北国街道との分れ道は、古来「分去れ」と呼びならわされていて、遺跡がある。しかしガソリンスタンドに目を取られていれば、まるで気がつかない人もいよう。だいたい国道十八号線というのが、ここまでの中仙道と、ここから先の北国街道とを呼ぶ新しい名称である。分去れの手前に枡形茶屋があり、昔の遊女屋のあとをとどめているが、追分に遊びに来る人の幾人がそれをわざわざ見に行くだろうか。泉洞寺は茅葺の屋根に赤いトタンをかぶせて、見るかげもなくなった。それでも境内は静かだし、裏手には遊女の墓がある。宿屋といえば油屋しかなかったのが、今では本陣でも宿屋を開業し、民宿をしていた農家なども、このごろでは宿屋なみにはやっている。その油屋でさえも、堀辰雄や立原道造が泊っていて火事にあったのは、はるか戦争前のことで、旧街道の反対側に移った建物に、今年は新館が出来るほどになった。  それでも旧街道筋はさして昔と変らない。国道十八号線が部落を迂回しているから、むやみと車が往来することもない。その代り分譲地がふえ、別荘がふえ、学校や会社の寮がどっとばかりふえたので、夏の間の追分の人口は大したものである。周辺にはゴルフ場も出来たし、一泊一万円のモテルもある。つまり今では信濃追分ではなく、軽井沢町追分となった。軽井沢が観光地化するにつれて、ここも少しずつ俗化して行く。  その変りかたを見ようと思って、今日の夕刻山の方へと出掛けた。このごろ私はまるで散歩に出る習慣をなくしてしまったが、その原因たるや、どの道を歩いても人に会うのが面白くないからである。そこで浅間登山道を登って行くと、やがて千メートル林道と交叉する。その先の浅間寄りは国有林である。私は林道を左に曲って暫く行ったが、見れば今まで国有林だったところに図体の大きな建物がやたらに建っている。洒落たテニスコートなどもあるし、運動場では学生たちが大声をあげて走りまわっている。目を疑うとはこのことで、国有林がいつのまにか私有地と化している。人に聞いた話では、国家が坪六百円で長野県に払い下げ、県はこれを坪三千円で売りとばしたのだそうだ。これで長野県はいくら儲けたか知らないが、風致はすっかりそこなわれた。浅間山を眺めようとすれば、どうしても奇妙な建築が一緒に眼にはいってしまう。  七、八年前には、この千メートル林道より上は一面の雑木林で、街道からここまで登ると野鳥のさえずりが降るように聞えた。キキョウやリンドウが咲き誇り、秋になるとキノコ採りに絶好の場所だった。それが営林署の方針で、木という木がきれいに刈り取られた時には、われわれ追分人種は大いに嘆いたものである。しかし浅間山の眺望はお蔭でたいそう恣《ほしいまま》になった。野の草もやがて花を咲かせた。鳥の声は少なくなったが、人の声はしなかった。机上の壺に挿すだけの花は、歩きながらたやすく折ることが出来た。  しかし、今日では、この林道を自家用車が疾走し、群をなす学生たちが埃を巻き上げ、道端にはボーイスカウトの天幕まで張ってある。もちろん眺めも宜しくない。必然的に登山道をもう少し上まで登らなければならない。浅間山の方向は雲に覆われ、遠雷がごろごろいっているが、降り出しそうな気配も見えない。だいたい夕立さえこの頃では珍しいものになって、昔は雷といえば追分の名物だったのに、今や遠出の散歩を試みてもまず安全である。雷までが人間どもに圧倒されているようだ。  とは言うものの、夕暮れの迫った追分ヶ原には秋色が濃い。絵を描いている青年がいる。犬を連れて散歩するお嬢さんがいる。私も草むらの中にはいって、壺に挿すための草花を選んだ。ニッコウキスゲ、ナデシコ、浅間フーロー、マツムシソウ、オミナエシ、ワレモコウ、ススキなど。ただキキョウは殆ど稀になり、リンドウはもうどこにも見つけることが出来なくなった。私は以前にはこれらの野草を束ね、草ひばりを籠に入れて、軽井沢の犀星老人のもとへしばしば運んだことがあった。室生さんにとっては何よりのお土産だったのだろうし、私にとっては室生さんの嬉しそうな笑顔を見るのが愉しみだった。室生さんが亡くなられてからは、私は花を摘むことにも虫を取ることにも、もうあまり熱心ではなくなった。そして私は一本の煙草をくゆらせながら、草むらに坐って、雲のたたずまいをあたりが暗くなるまでぼんやりと眺めていた。 [#地付き](昭和三十九年八月十七日記)     石仏その他  私のように流行に疎い者でも、この頃石の趣味がはやっているらしいことは知っている。石というのは面白いものだから、さぞや風流な人たちだろうと思うが、その実体は知らない。私には大金を投じて珍しい石を買うような趣味はない。  信濃追分の私の山荘には、石はないが、石づくりの珍しいものは三つ四つほどある。一つは屋敷神と称するもので、土台石の上に屋根とお堂とが安置され、高さは一尺五寸くらい、昔はこの辺の屋敷の傍らには必ずあったものらしい。数年前までは、栗ひろいや茸採りに雑木林の中などを歩くと、苔の蒸した石の屋根が足許にふと現れたりしたものである。しかしこの頃はもう殆ど見られなくなった。私の家の庭の一隅に安置してあるのは、私が井戸屋の茂ちゃんと気安く呼んでいる村の識り合いから、特に借り受けたものである。相手が神様のお社だから買うわけにはいかない。無期限貸借。その代り年に一度神主さんにお祭りをしてもらう。  屋敷神と並ぶものは五輪《ごりん》である。鎌倉あたりのお寺によくあるものだが、丸石や角石を五つほど積み重ねた塔で、正確には、上から如意珠形、半月、三角、円、方、というのだそうだ。これは信濃追分の駅から南にくだった或る部落の端れの、小高い岡の上にものの二、三十もあるのを村松剛君が発見した。そこで彼は僕をかたらって一緒に談判に行こうというので、その部落の長者と掛け合ったが、向うはなかなかうんと言わない。何でも川中島の落武者がここで死んだその墓どころなのだという。そこは部落の共有地で長者の一存では行かないというのを、村松君、及び案内役の桶屋の何とかさんが説き伏せて、特別に我々だけということで部落に酒肴料を出して二つほど譲り受けた。既に風化したり頽れたりしているのが多く、なるべく審美的な形のを五つ組み合せようと思い、重たい石を取ったり下したりして随分とくたびれた。おまけに車代もだいぶかかった。  次に石仏がある。弥勒《みろく》仏を浮彫に刻んだ石が土台の上に載っている。これは村の泉洞寺境内の墓地にあったもので、垂涎措く能わなかったが、何しろ売り物ではない。そこで寺の和尚さんにお願いして、年に一度の墓参りにその墓の主が遠くの村から来た時に頼み込んでもらった。そうしたら、年に一度来て詣でるよりも、しげしげ拝んでもらう方が仏さまもお悦びだろうというので、目出たく我が庭の方へお移し申し上げた。これも亦無期限貸借のくちである。鼻の頭が少しばかり欠けているが、柔和なお顔の菩薩さまで、雨が降ったりして石が湿ると殊に表情が美しい。  ついでにもう一つ。この石仏の足許に石臼がある。石臼というのは、水車で米を搗《つ》いた時に、石の杵《きね》を受けるのに使ったものである。水車で米を搗くのは昔はこの辺でも普通の風習だったのだろうが、水は次第に乏しくなり、代りに電気仕掛の製米所ができて、石臼もまた無用の長物となった。  四、五年前に村の建具屋の伝ちゃんから、さる旧家に石臼があるという話を聞き、彼を介して申し入れたところ、これはお金で解決できる代物だからすぐに承知してもらった。しかし運搬の方は大変である。表面は二尺四方ぐらいの面を丸く刳《く》り貫《ぬ》いてあるだけだが、深さは三尺近くある。つまり大きな立方体の石で、一面ががらんどうになっているとは言っても、並大抵の重たさではない。小型トラックで庭の近くまで運び、そこから大の男が二人がかりで、丸太棒に縄でぶら下げたところ、丸太棒が真二つに折れて大騒ぎをした。やっとのことで地面に埋めたが、埋めてしまえば、さして目立たない程のものである。それに水を張り、金魚などを泳がせてやった。  私は毎年、夏は信濃追分に行ってこうしたものに対面するのを愉しみにしているが、この夏は事情があって行くことが出来なかった。九月になってほんの数日だけ出掛けたが、ひっそりと荒れた庭の中に、石仏をはじめ、屋敷神も、五輪も、秋風に涼しく吹かれていた。石臼は緑色の水を湛えていた。こうした石づくりの物のなかには古い時間が眠っていて、それが人の想いを佇ませるのであろう。 [#地付き](昭和四十年九月)     山村閑居  信濃追分も、近ごろは軽井沢の繁盛に伴ってしだいに俗化してきたようだが、まだまだ山村閑居の趣きを失ってはいない。私は昨年は事情があって東京を離れることが出来なかったが、ことしは玩艸亭《がんそうてい》と自ら称する追分の小屋《しようおく》で、盛夏を過すことを得た。学校の寮や別荘が建て込んで来て、人口もまた膨張し、昔日の面影がないと嘆いてばかりいても始まらない。追分には追分のよさがあって、そのよさは知る人ぞ知るである。  信濃追分はバスで中軽井沢まで十分、旧軽井沢までは三十分足らずの距離にあるが、何と言っても寂しいところだから、自然以外に取柄らしいものはない。だいたいここに遊びに来る人種は三種類に分けられる。第一は若い人たちに多いが、着いたその日にもう旧軽井沢までコーヒーを飲みに行かなければ気のすまない人。第二は一週間までは我慢するが、それ以上はとても身が持たないとこぼす人。第三が即ち私のような、退屈という文字をどこかへ置き忘れて来たような人間である。もっとも今年の夏は天候不順で、高原らしくからりと晴れた日は数えるほどしかなかったから、第一第二の人種がふえたのもいたしかたがないかもしれない。例えば私の古い友人たちが、何年ぶりかで珍しくこの夏はちょくちょく現れた。矢内原伊作は半日だけ顔を見せ、中村真一郎は一晩で東京へ退却し、加藤周一は一週間ずつ二回ほど彼の別荘に滞在していた。これらの諸君はもともと忙しい身体だから、若い連中と一緒にしては申訳ないが、追分の風物を案内できなかったのは残念である。もっともお喋りだけは充分にしたし、それはそれで清談といったもので、これが東京で会ったのでは、こうのんびりとはいかない。  近ごろは諸事変ったと言っても、変らないものも勿論ある。八月中旬の月おくれのお盆が過ぎると、毎年必ず草ひばりという虫がすだき始める。芒の穂が出はじめる。山で雉が鳴く。こういう自然を味わうのでなければ、追分に来ているだけの甲斐がない。そこで私は、しばしば夕方になると、家を出て林道への近道を登って行く。  雨を冒してまで出掛ける勇気はないが、霧ぐらいならレーンコートに長靴という格好で、片手にステッキを持つ。ステッキはこの細い近道を行く時に、通せんぼのように張りめぐらされた蜘蛛の巣を払うためである。長靴はもちろん山野を跋渉《ばつしよう》するためである。  私は時々立ち止って、草花をとる。桔梗はこの頃ではごく少なくなったが、それでも私は目ざとく見つける。というのは、私は方針として浅間登山道や林道から見える範囲内の花はとらない。それは道行く人の目を愉しませるものだから温存する。従って藪の中に踏み入る代償として、桔梗などを上手に捜し当てるというわけである。  その合間に虫の音を聞き、鳥の声に耳を澄ませる。晴れた日には、刻々と移り変って行く浅間山の夕景が美しい。この時刻には盛夏といえども人ひとり出会うことがない。紫に染まった山肌の眺めは、まさに私のための自然の饗宴である。  そこで家に帰り、夕餉《ゆうげ》をしたため、野草を壺に生ける。それから机の前に坐って、例えば「十便十宜」の複製などを見る。  十宜の方はすべて我が家にも当てはまる。春夏秋冬によろしく、晴雨によろしく、朝晩によろしい。十便の方はそっくりそのままというわけにはいかない。「釣便」などというのは、私の家の前に小川は流れているものの、嘗て魚が釣れたということを聞かない。  しかし耕すにも、吟ずるにも、薪《たきぎ》をあつめるにも便である。旧友交歓などという古人の数えなかった便もある。そこで私にもし絵ごころがあれば、蕪村、大雅の向うを張って、ひとりで「十便十宜」の二十図を物することも出来る筈である。  遺憾ながら私にはその能力がないから、漫然と空想を走らせ、点滴の音を聞きながら、画冊の上に思いをめぐらせている。というようなのが、玩艸亭に於ける私の最上の愉しみである。 [#地付き](昭和四十一年八月)  [#改ページ] [#小見出し]  信濃追分の冬 「おやちょっと見て御覧、どうも浅間山らしいよ。」  僕は汽車の進む方向に向って、左側の窓際の座席に坐っていたが、向い側にいる妻に思わず声を掛けた。彼女は促されるままに腰を浮かし、窓硝子に首をくっつけるようにして僕の見ている方向に眼をやった。暖かい日射の射し込む窓硝子の向うに日だまりの野原がひろがり、その上には冬のよく晴れた空が雲一つなく蒼々と光り、富士をはじめ秩父の連山が遥かにくっきりと峯々を連ねていた。その外れに、ぽつんと小さく、しかし眩しいように雪を光らせながら孤立している山、それはどう見ても浅間山に違いなかった。 「本当に、もう見えるのね。」 「真白だなあ、これじゃ追分も雪かな。」  汽車は信越線の急行で、今しがた大宮の駅を出たばかり、このあたりで早くも浅間山に気がついたことは、今までに一度もなかった。大抵は高崎を出てからやっと窓の外に注意するようになるので、綿毛のような煙を棚引かせながら、線路の或いは右に或いは左に山の姿を見るようになると、急に気持が生き生きとし始めるのだ。この日に限っていち早く浅間山を認めたというのも、冬の空が一点の影もなく澄み切っていたせいもあろうし、雪に日を受けて山が宝石のように輝いていたせいもあろう。しかしまた僕の心が、久しぶりの冬の旅にしきりにはずんでいたせいもあったに違いない。何しろ僕は出無精で、特に冬になると、とても寒いところへなんか出掛ける気にはならない。一昨年の冬は勇を鼓して追分で正月を越したが、東京から運んで行った風邪のためにだいぶ苦労をした。去年は秋に胃を悪くした後だったので、一冬じゅう大人しく静養した。従ってこの冬、年の暮に近くなってから寒いところへ出掛けるのは、僕にとってみれば大決心を要した。  僕はしげしげとこの小さな雪山を窓から眺めていた。遠くに見える山というのは、側から見るのとはまた違った一種の感動を、人に与えるものらしい。山恋いという言葉は、そういう時にこそ実感をもって呟かれるのだ。数年前に、諏訪の方に行って小海線で追分に帰って来たことがある。汽車が八ヶ岳の高原地帯をくだり切ると、前方に豆粒ほどの浅間山が見えて来た。それは夏の終り頃で、白い噴煙がむくむくと爽快に上っていた。その風景が、飽きるほど浅間山を見馴れている筈の僕を感動させ、旅人の気持に僕を誘い入れた。その山の麓に住んで経験したあらゆる感情が、その山の遠望の中に結晶するのかもしれない。  汽車は速かに進行し、硝子には暖かい日射が当り、僕の気持をも暖かくした。追分の冬は厳しいと知っていても、そこに冬休みの三週間を過しに行くことに心がはずんだ。  僕が浅間山の麓にある信濃追分に、小さな別荘を構えるようになってから、もう六年くらいになる。別荘というよりはほんの山小舎で、初めの年は井戸もなく、貰い水で一夏を暮した。それが不便でしかたがないから、無理をして二度ほど建て増しをし、見掛けだけはどうにか立派になった。といっても、一昨年の夏の建て増しに、田舎大工を相手に大喧嘩をしてさんざん手古摺り、出来た家もよく見ればあらだらけというお粗末な代物だ。しかもそのお蔭で僕は胃を悪くして半歳ばかり休養を余儀なくされた。癇癪を起すのはたいへん胃に悪いそうだが、僕は大工とやり合ってまさにその見本を示したらしい。そのためか近頃では人格円満になって、とんと癇癪を起すこともない。妻が、あなた近頃は本当に感心だわ、と言ってほめるのも、雷が落ちることがなくなって少々退屈しているのではないかと僕は疑っている。  しかし無理を重ねて増築を試みたのには、多少の理由がないわけではない。つまり僕は東京では勤め先の学校の中のアパートを借りているので、自分の家というものを持たない。そこで追分の別荘を、謂わば本宅がわりにしたいという気があった。何しろ甚だしい年は、一年のうち延べ百五十日位は追分で暮しているので、春夏秋冬の学校の休みには、妻と二人、アパートに鍵を掛けて、さっさと追分に逃げ込む。仕事は専ら追分ですることにしているし、健康にも甚だ宜しい。夏だけ来るような人たちを気の毒がり、追分のよさは例えばこぶしの花が咲いてからやがて落葉松の芽ぶく春先とか、栗拾いからきのこ採りを愉しむ秋の盛りとかにあるので、夏なんてたいしたことはないなどと勝手な熱を吹いている。といっても学校の教師を兼ねている身では、そうそう追分に引籠って文筆にいそしむわけにはいかない。春の六月、秋の十月という季節は学校の方も忙しいから、実はほんのちょっときりしか知らない。従って学校の休みを最大限に利用するとなれば、必然的に厳寒の年の暮にも追分に出掛けるということになった。正月は山暮しと人に言うと、誰もが物好きですねと言って笑った。  もっとも追分には、ぜひ来てみて様子を見たい人がいた、それは僕等の別荘の隣人である角治郎さんである。角治郎さんはもう七十四歳だし、この夏は具合が悪くて、夏の終りに僕等が東京へ引上げる時にはだいぶ心配した。それとこのおじいさんのために果してあげたいことが一つあった。墓参である。  軽井沢で急行を下りて追分まで車を走らせた。浅間山は今やすぐ真近に、麓まで雪に埋もれて見上げるほどに聳えている。いや山ばかりでなく、アスファルトの街道こそ雪もなかったが、街道の左右の原っぱにはまだ雪が白く積っていて、雪の上を渡る風が冷たい。 「運転手さん、随分雪があるね。いつ降ったんだい?」 「一昨日ですよ。昨日の朝は零下十五度でね。」  聞いただけでも背筋が寒くなって妻と顔を見合せた。雪のあるのは風流で有難いが、寒いのはどうも苦手だ。僕は一冬だけ北海道で過したことがあり、その時には零下二十五度というのを経験した。眼に見えない寒気が、四方八方、至るところから自分を目掛けて攻め寄せて来る感じで、今思い出してもぞっとする。追分で知っているのは、三、四年前の二月ごろ暫く滞在した時の零下十三度だが、掛蒲団が自分の吐く息ですっかり凍り、その冷たさで夜中にしばしば眼を覚ました。  余計な心配をしてもしかたがない。やがて車が着き自分たちの家まで来てみると、角治郎さんと井戸屋の茂ちゃんとが既に戸じまりを明けて待っていてくれた。茂ちゃんは村の人で本職は井戸掘りだったが、近頃は人を使ってブロックの基礎工事などを営んでいる。お茶を飲んで休息し、角治郎さんにまず、御愁傷さま、と挨拶した。 「しかしおじいさんの方は、随分と元気そうですね、身体の方は大丈夫ですか?」 「ああ元気だとも。ただジャックが可哀想なことになってなあ。」 「お手紙を幾度も有難う。僕等も気を揉んでいたんだけど、しかたがないですよ、老犬だもの。」  白状すれば、墓参と前に書いたが、実は犬のお墓である。たかが犬といっても、これが角治郎さんにはどんなにこたえたか。  立派なお墓を建ててやったと聞いていたので、雪を踏んでまずお墓参りに出掛けた。畑の外れの、松林の入口である。泉洞寺の和尚さんが作ってくれたという小さな白木の墓が、眺めのいい場所に立っていた。正面には「愛犬ジャック之墓」とある。右手には「施主松下角治郎」、左手には「昭和三十四年十二月十二日歿」と書かれている。裏手には「行年五歳」とあるが、これは実はいい加減で、本当の年は分らない。この場所からは背後に浅間山が、正面の遠くには八ヶ岳が手に取るように見える。松風が響くたびに、線香の煙が薄すらと流れた。 「本当にジャックはしあわせ者よ、おじいさんにこんなお墓まで建ててもらって。」  妻がしみじみとそう言った。  僕等の家の隣にやなぎ屋という屋号を持つ大きな別荘がある。本来はこの土地の大地主だが、早くから東京に出ていて追分には夏のほかは殆ど見えない。従って別荘番をしながら一人留守を守るのが角治郎さんの役目である。別荘の下手、小さな用水にかかっている橋を渡って旧街道との間の地所に、小舎を建てて暮している。一人暮しとはいっても、犬一匹、猫一匹、アンゴラ兎七匹、鶏三十羽ばかりを養っている。年を聞くと驚くほど高齢だが、そうは見えないほど元気がよくて、春になれば畑を耕し、草花を栽培し、秋になればそだ拾いから薪割り、その間しょっちゅう土地を見廻ったり鶏の世話をしたり、小まめに働いて休む暇がない。  角治郎さんはもともとこの土地の人ではない。若い時には羽振りのよかった時もあったらしいが、色々と苦労をして、終戦後にこの土地に来てやなぎ屋さんの別荘番になった。子供や孫がいないわけではないのに、頑固者でひとり暮しが気ままでいいらしく、決して息子や娘の世話になろうとはしない。卵を売ったり草花を東京に出したりして、細々と暮している。小柄だが、背中も曲っていないし、眼も耳も達者で、とうていその年には見えない。  このおじいさんと僕等夫婦とが親しくなったのは、そもそもが、犬の取り持つ縁である。一昨年の夏の初め、浅間山から下りて来た迷い犬だと称して、学生たちが僕のところに立派なコリイ種を連れて来た。大柄の見事な犬で、ロアと名づけて愛育したが、夏も終って引上げる段になると、東京ではアパート暮しゆえいくら可愛くても連れて行くわけにはいかない。誰か貰い手はいないかと探すうちに、角治郎さんが幾度も、いい犬だねえ、とほめてくれたのを思い出し、おじいさん、ロアをあげるから飼いませんか、と水を向けると、えびす顔で引受けてくれた。よっぽどの犬好きと見えて、僕等とはだいいち可愛がりかたが違う。つまり甘やかし放題で、夜は自分の蒲団に一緒に入れてやる位だ。このロアは図体の大きい割にはまだ子犬で、本来が迷い犬だから放浪癖があり、ひょくひょく消えてなくなるので、おじいさんはその度に峯の茶屋や御代田《みよだ》の方まで探しに行ったことがあった。  一年経って去年の夏、ちょうど僕たちが建て増しでふうふういっていた頃、このロア君が行方不明になった。角治郎さんの心配はひとかたならず、僕等夫婦も一緒に処々方々を捜し歩いたが、古宿《ふるじゆく》の或る別荘番のところにそれらしい犬が迷って来ていると駐在から電話があり、勇躍して車で迎えに行くと、何とこれがしょぼしょぼした老犬で、身体の大きさはほぼ同じだが気息奄々たる有様だ。 「おじいさん、諦めなさい。まるで違ったよ。やっぱりロアは誰かに連れて行かれたんだよ。」 「それでもこの犬も可哀想でな。犬小舎が空いているんだから、連れて行ってやるか。」  よしなさいそんな犬、とも言えず、車で連れて来たが、おどおどして、痩せさらばえて、ロアとは比較にならないが、それでもセッター種らしい形はしているし、大人しそうなところが取柄である。ロアは何しろ暴れ者で、おじいさんが引張るというより、反対におじいさんが引張られてしばしば尻餅をつかされることもあったが、この老犬にはそんな元気はないだろう。まずちょうどいい取組かなと噂していたが、角治郎さんはすっかり情が移ったと見えて、せっせと可愛がる。そこでジャックと名前をつけてやった。  丹誠というのは恐ろしいもので、日ましに肉がつき、段々に精気が出て、そのうち犬らしい犬になった。前のロアと較べると、何と言っても忠義である。鎖で引張らずともおじいさんの行くところには従い、側で番をしている。その代りおじいさんの方も、毎日牛乳を飲ませ、毎晩抱いて寝るのだから、人か犬かという仲の良さだ。今年の夏は、一年の間に見違えるほど立派な犬になったので、僕等も、丹誠というのは恐ろしいものだねえ、と感心した。  ところがおじいさんの方が、夏になると元気がないように見受けられた。犬も年寄らしいが、角治郎さんは何しろ七十四歳である。血圧の高いせいだろうから、熱でも出ると、その一人暮しが気になってならない。僕の友人が浅間町の病院長をしているので、そこへ連れて行って診察してもらったりした。心配するほどのことはなかったが、畑仕事などの無理は止めて、なるべくじっとしているように忠告した。ジャックも心配そうに犬小舎を出たりはいったりしている。しかし涼しくなるにつれて、どうやらおじいさんも元気を恢復し、僕等が東京へ引上げる頃には、犬を連れて歩き廻る姿が見受けられた。  十二月の初旬に角治郎さんから手紙が来た。 「ジャック半月モ病気玉子モ牛乳モダメ水ト薬ダケ初ハ農協ノ医者頼ミマシタガ二十八日軽井沢町役場前ニ高イドモ犬専門ノ医者ヲタノンデクレテ注シャ二本毎日粉薬三回一日六百円ジャックナミダダスノデ自分モナミダガ出テ困リ病院ノ眼科ヘ行マシタ」  引続いて次の葉書が来た。 「毎日暖デスジャック十二日午前十一時四十五分死亡残念デシタ」  僕等もまさかと思っていただけにすっかり気落がした。 「おじいさんがっかりして、また身体を壊すかもしれないぜ。」 「あんなに可愛がっていたんですものねえ。ジャックったら、私たちの帰る日にとっても懐しそうに私の顔を見ていて、私から離れなかったのよ。」 「君も相当な犬キチだからね。」 「あれはきっと分っていたのね。本当に可哀想だわ。」 「しあわせな犬さ。あれだけおじいさんに面倒を見てもらえば犬も本望さ。それよりおじいさんの方が心配だから、一つ冬休みになったら行ってみようか。」  しんみりしている妻に、僕はそういう相談を持ち掛けた。  雪が溶けないうちにと、登山道の方に散歩に出掛けた。毎日よく晴れた日が続き、西風が樹々の雪を払い落した。登山道を暫く登ると、第一林道と呼ばれる千メートル林道が交叉し、更に暫く行くと第二林道と交叉する。その間は国有林で色々な種類の雑木が生えていたのが、春先きに営林署ですっかり樹を伐り取ってしまい、ただ一面の野原になった。せっかくの趣きがなくなり、野鳥なども減ってしまったから、実は営林署を怨んでいたのだが、見晴らしだけは素晴らしくよくなって、今や一面の雪野原の向うに、浅間山がぐんと聳え立つのが明らさまに見えるようになった。截り落したような前面に二段と呼ばれる断崖がそそり立ち、陽光を受けてその岩肌が雪の下から覗いて見える。浅間山から左側に、天狗の露地と呼ばれる狭間《はざま》を通って剣ヶ峯がまた盛り上っている。その手前が、石尊山というなだらかな起伏を持つ小さな山で、この山には三年ばかり前の秋に一度登ったことがあるが、関東平野まで遠望するその広々とした風景にすっかり感動したものだ。  小さなちぎれ雲が浅間山の頭上近くを掠めて行く。噴煙とまじり合って、激しい風に吹き飛ばされる雪が東側の山の線を白っぽくぼかしている。それを見ながら第二林道を西へと歩いて行けば、遠くに八ヶ岳が連なり、またその右のはずれにはアルプスが真白い峯々を波浪のように連ねている。手前の佐久平は、光の中に溶け込んで平べったく煙り、ところどころできらきらと輝いているのは千曲川に違いない。山がわの林の中で四十雀が鳴き、鋭く樹を伐る音がする。  夏の終りには、この辺は野の花が咲き乱れしじみ蝶が飛び交うところだ。今は荒涼とした雪の原で、季節特有の西風が雪煙を立てて野兎の足跡を吹き消して行く。見はるかす限り人ひとりいない。そして浅間山が、他のどんな季節に於けるよりも、一層大きく見える。  家の中に閉じこもってストーヴを焚く。この夏は颱風のために樹が沢山倒れたから、お蔭で薪だけは沢山ある。ストーヴの前に陣取って薪ストーヴの燃え続ける音を聞くのは愉しいものだ。角治郎さんが風呂を貰いに来る。井戸屋の茂ちゃんが話をして行く。村の人たちが挨拶に来る。これで仲々忙しい。  妻と共に角治郎さんから話を聞いたのも、ストーヴの側である。ジャックは秋ぐちから次第に食欲が衰え、御飯に卵を掛けてやってもはかばかしく食べない。或る日姿が見えないので、心配して一日中探し廻ると、漸く、泉の出る沢のところに寝ているのを見つけ、戸板に乗せて連れて帰った。それからは犬小舎から一足も動かなくなり、獣医さんに看てもらっても、格別の手だてもない。妻がその頃ビスケットや肴を送ったのだが、それさえ見向きもしない。おじいさんは大豆を百粒数えて、浅間神社にお百度参りを始めたが、それも役には立たなかった。やなぎ屋さんの地所の裏にビスケットなどの好物と共に葬ったが、お寺の和尚さんに頼んで、人間なみの回向をしてもらったそうである。 「おじいさんも随分と大変でしたねえ。」 「なあに私なんかどうでもいいけど、ジャックが可哀想でならんかった。大粒の涙をこぼしてねえ。犬も泣くもんかねえ。」 「あれはロアと違って利口な犬でしたよ。きっと満足して死んで行ったんだから、おじいさんもあんまり気にしちゃ駄目ですよ。」 「そうかのう。」  角治郎さんはお茶を飲み終ると、丁寧に膝をついて礼を言い、夜道を自分の住家へと帰って行った。礼儀正しい人である。  暮の二十九日に雪が降ったが、大晦日は雨でそのために雪はみんな溶けてしまった。しかし年が明けても暖かで、村のあちこちから餅や蕎麦を貰って、静かな正月を送った。子供たちが書初めを持って遊びに来ると、こちらも子供にかえって凧揚げや羽根つきを附き合った。毎朝のように、葉の落ちた木の枝がどれもこれも霧氷のために真白く花を咲かせる。土地の人は|なご《ヽヽ》と呼んでいるが、それが朝日にきらきら輝くのを見て愉しんだ。大した寒さにもならず、浅間山の雪が麓の方から一日ごとに溶けて行った。  僕等は十五日に帰京したが、午後の汽車に乗るために支度を済ませて遅い昼食を認めていると、角治郎さんが声を掛けた。 「今日はジャックの三十五日でな、和尚さんがお経をあげに来てくれているから、ちょっと来てくれんかね。」 「ああそうですか、直に行きます。」  僕は、おどろいたね、と言って妻と顔を見合せた。まったく人間なみだなあ、とひやかしながら、それでも外套を引っ掛けて、やなぎ屋さんの地所の方へ畑を突切って急いだ。  泉洞寺の和尚さんはちゃんと袈裟を着て、ジャックの墓の前に僕等を待っていた。角治郎さんは線香の束に火をつけて、しっかり手に握りしめていた。やがて和尚さんが長いお経を読み始めた。僕等は代る代る線香を捧げた。その日もまた西風が強く吹きつけ、冬空は蒼く晴れ渡り、浅間山と八ヶ岳とが、冴え冴えと光っていた。「念彼観音力」という普門品の偈が、風に乗って流れて行った。  角治郎さんは小さな身体を一層小さくしたまま、防寒帽を手に握って、じっとそのお経に耳を傾けていた。 [#地付き](昭和三十五年一月)  [#改ページ] [#小見出し]  室生犀星      一、その若さ  僕が初めて室生犀星という名前を覚えたのは、日本の近代詩人の詩集を片っ端から読み始めた高等学校の頃だから、もう二十年の昔になる。朔太郎、光太郎、耿之介などの同時代者として、「愛の詩集」はみずみずしい若さを持っていたが、この詩集の出版は大正七年だし、それは僕などの生れた年なのだから、既によっぽどのおじいさんだと考えていた。一つにはこの犀星という雅号が、ばかに近寄りがたい威厳を放っているということもあっただろう。そして僕の高等学校時代、つまり昭和十年前後は、室生さんが小説家として盛に活躍されていた頃で、「あにいもうと」とか「聖処女」とかいった市井物が、続々と生れていた。登場人物の名前のつけかたがみんな変っていて、そこにロマンチックの名残があったが、材料も文体も油っこいもので、若々しさといった感じはなかった。もっとも徳田秋声の作品さえロマンチックとして読んでいた当時の僕は、室生さんの色彩画も大へん好きだったが、興味が作者にまで及ぶということはなかった。戦争の始まった頃、軽井沢で堀辰雄に室生さんを紹介していただいたが、朝巳君や朝子さんとはすぐに友達になれたものの、親父さまの方は敬遠してろくすっぽ口もきかなかった。どうもおっかなそうなおじいさんだと思っていた。  僕が室生さんのところへ行くようになったのは、堀さんの亡くなられたあと、殆ど昨年くらいからのことだ。そこでゆっくりお話なぞ伺うようになると、驚いたことに先生はひどくお若いのだ。これはお世辞でも何でもない。それが一番よく分るのは、一座に女性がいる時、こういう時の室生さんの愛想のよさ、殆ど少年のはにかみに近いものがある。つまり感受性が常に研ぎすまされていて、少年の爽かな感覚を少しも失っていられない。樹木とか、庭とか、石とか、骨董とかに対しても、きっと女性に対するのと同じ鋭敏な感覚が働くのだろう。先生の最近の作品、例えば「餓人伝」とか「少女野面」などのどれを採っても、先生の清潔な日常とは何の関りもなく、一途にその好奇心と造型への執着とから生れたものである。朝子さんなどに聞くと、先生の規則的な生活の潤いは、場末での映画見物くらいで、一体どこからあれだけの緻密な材料を仕込まれるものか不思議でたまらない。そこで、架空世界への情熱というものが、如何に作者を若々しく保って来たものかと、今更のように感嘆させられてしまう。  と言っても室生さんはやっぱり怖い人で、どうも女性には点が甘いけど、餓鬼は嫌いじゃ、と仰せられて、僕等にはおしなべて峻厳である。もっともよく考えれば、こういう点も先生がまだお若い証拠なのかもしれない。 [#地付き](昭和三十年六月)       二、その人と虫  僕は東京にいると出無精で、大森は馬込まで犀星先生の尊顔を拝しに行くことはめったにないが、夏の間信濃追分に暮していれば、つい人恋しくなるから、必ず一夏に数回は軽井沢まで出掛けて行く。本当のことを言えば僕には室生さん(と心安く呼ばせてもらって)が苦手である。だいいちあの大きな目玉でぎょろぎょろ睨まれながらお行儀よく坐っていなければならないし、めったなことを口走るとすぐさま随筆か何かに書かれそうで危くていけない。そこで庭を眺め、床の間の軸を眺め、机、文房具、壺、人形の類をしげしげと眺め、あれもいいなこれも悪くないな欲しいものだな、などと心中よからぬことを考え、口の中で、はいとかさてとか生返事をしている。室生さんは興が乗って来ると上品な話ばかりとは限らない、次第次第に品のないような話まであけすけに話されるが、その場にいるのは僕一人ではなくうちの細君なり堀夫人なりが一緒だし、令嬢の朝子さんも同席しているのだから、具合が悪くて僕まで(というのは僕はじきに感情移入の出来るたちだから)顔を赧くすると、室生さんはしてやったりと、どうだね福永君、そうは思わんかね、などとしゃあしゃあと訊くのだからまったく人が悪い。そこで僕は、ああよく鳴きますね、と虫の声に耳を澄ませているような顔をする。  虫の声といっても室生家の虫はただの虫ではない。すいっちょ、きりぎりす、松虫、鈴虫の籠がビルディングの窓のように層々と積み重なって、それが中で一斉にがちゃがちゃと鳴き出す様はおよそ風流なんてものではない。まったく何匹いるんだか、不断は堆い虫籠の上に黒い風呂敷がかぶせてあり、虫の合唱がそこから一かたまりになって猛然と迸り出るのだから、これを耳にしながら小説が書けるなんてあきれたものだと思い、そぞろがちゃがちゃの仲間にはいった草ひばりの運命が憐まれるのである。  草ひばりというのは、立原道造の「水引草に風が立ち草ひばりの歌ひやまない」という名文句で知られている可憐な秋の虫である。どういうものか軽井沢には少なくて、その代り信濃追分では草という草に住み、たまには家の中の壁の上にまではいって来て鳴く。声は細く甲高く、ぴりりりりり、と一息に長く長く鳴き続け、その音の微妙なことはちょっと類がない。ところがこれを見つける苦労たるや並大抵ではないのだ。昼の間は到底眼にもとまらないから、夜まず懐中電燈を用意して草むらの中に出で立つ。そして真暗闇で鳴声に耳を澄ませ、徐ろに音の発信地に近づく。ここで注意すべきなのは、草ひばりは複音であって肝心の場所から少々離れたところで音を発しているように人を錯覚させることだ。心耳を澄ませて後に、懐中電燈を点け、透明な薄い翅をふるわせているのを見つけなければならない。眼ではなく耳によって探り当てるのがこつ。それから懐中電燈の端を口に銜え、両手をえいとばかり虫にかぶせ、おおい取ったぞう、と言いたいところだが口は利けないから、飛ぶが如くに家の中にはいり、細君が虫籠を用意したところで両手を開く。と三度に二度は手の中にあるのが葉っぱばかり、という始末である。  このように苦心惨澹して捕獲した草ひばりを、毎夏、軽井沢の室生先生へ献上するのが、いつのまにか我が家の仕来りとはなった。こちらの腕前も上達して格別声のいいのばかりつかまえ、更に選りに選って献上するのだから、がちゃがちゃ仲間なんかに負けるような虫ではない。ところが追分ではあれ程よく鳴いていたのが、どうも室生さんの威光の前に恐れをなしたのか、ここまで運ぶとはかばかしく羽を顫わせようとしない。きっと心の中で、何だがちゃがちゃなんか何匹いたって負けはしないぞと思ってはいるのだろうが。  僕も室生さんの前では小さくなっているが、さよならを言って信濃追分に帰って来ると、俄然元気になり、室生さんも変な虫が好きだねえなどと細君の前で悪口を言って、鬱憤を晴らすのである。 [#地付き](昭和三十四年五月)       三、その死  室生さんが亡くなられた。私のような後輩が、一代の詩人室生犀星を気やすく室生さんなどと呼んでいいものか。しかし先生は気も心も若くて、目下の者に対してそっくりかえるようなところの微塵もなかった人だけに、お年とはいえ、黯然《あんぜん》として訃を信じる気にはなれないのである。  思い出せば、私が室生さんに親しくしていただいたのは、堀辰雄の歿後のことにすぎない。私が信濃追分に山小舎をつくって、夏の間、軽井沢の先生の別荘をお訪ねする習慣がいつしかついた。室生さんが女流作家や女性編集者を好まれるのは周知の事実だが、餓鬼は嫌いじゃのその餓鬼に属する私は、それでもおっかなびっくりで先生の前に畏まったものである。話は多岐にわたって聞きあきることがない。犀星的文章のもつ陰森として重畳たる趣きは、その座談においても遺憾なく発揮され、時のたつのを忘れさせた。一つには先生の話が妙に肉感的で、生活の豊富な裏打があるために、煙に巻かれるようなことが多かったせいもあろう。  この六、七年間の先生のお仕事ぶりは、目ざましいの一語に尽きた。毎日午前中に五枚の原稿執筆という日課は必ず守られた。締切におくれることもなく指定の枚数が延び縮みすることもなく、若い者の及びもつかない律義さだと敬服していた。特異の体臭をもつ文章によって、次々に生み出された「杏っ子」「かげろふの日記遺文」その他の作品を、驚嘆の目で見守っていたのは、決して私ひとりではあるまい。  室生さんが奥さんを亡くされてからは、一脈の寂しさが感ぜられるようになった。先生は庭を愛し、骨董を愛し、時計を集め、若い女の子を可愛がられた。生活を愉しんでいるように見受けられたが、しかし先生が最も愛されたのは仕事であろう。最近出された小説集「はるあはれ」の扉には「あはれといはばなかなかに身すぎよすぎのうたうたひ」の自嘲があるが、老境にあって、あれほど書くことの好きだった人、しかも常に新鮮な感動をもって物を見、物を書いた作家を、私はほかに知らない。  昨年の夏、私は少し具合を悪くして、軽井沢の別荘をお訪ねしたのは、人影も疎らになった夏の終りだった。犀星詩碑というのが川っぷちに完成し、私はまずその写真などをとり、お宅に行って、いいのが出来ましたね、と褒めたが、先生は元気がなく、この夏は仕事が出来なかった、とこぼしていられた。その夏既に、病いの兆候が現れていたようである。帰京して直ちに入院されたが、その経験によって「われはうたへどもやぶれかぶれ」のような作品が生れたとは、鬼気迫る感じがする。  私は今年流行したインフルエンザのために長く寝ていて、先生が再び虎の門病院に入院されたと聞いても、お見舞いにも伺えなかった。私はやっと今月十八日に出掛けて行き、たまたま御機嫌が宜しかったので病室へ呼び込まれた。思えば先生が昏睡状態になられた前日である。久しぶりに娑婆の人にあった、と言われた。今度の入院の時も、原稿執筆用の道具一式を携えられたそうだが、手が利かなくてもう書けないことがひどく心残りらしくて、右手を出して見せて下さった。わしは記憶力が衰えて、というようなことも言われた。  室生さんの晩年は幸福であったか不幸であったか、私は知らない。私には、先生の胸中に、なお吐露することのなかった無限の悲しみが隠されていたような気がしてならない。しかしそれは文士たるものの宿命であろう。先生は本分を尽された。先生の愛された友人や弟子たちの多くは、先生よりも夙く世を去って、孤独の影は先生の上に濃かったようである。私が病院で最後にお会いした時にも私はその影を見るに忍びなかった。 [#地付き](昭和三十七年三月二十六日夜記)       四、その顔  室生犀星は私にとって老人だった。私は室生さんを晩年の十年間ぐらいしか知らないから、私が初めてお目に掛った頃でも既に六十歳をだいぶ過ぎていられた。従ってわざわざ老人だったと断るまでもないようだが、これほど見事な老人を、私は他に知らないのである。この頃は一般に寿命が延びて、四十五十はまだ青年のうちで、六十歳を過ぎた人でも大して老人だという気はしない。ところが室生さんは縦から見ても横から見ても老人だった。その行住坐臥すべて老人くさく、顔は年輪の刻み込まれた渋紙の如き色相《いろあい》を呈していた。もっとも夫子自身は年寄扱いされることを好まない風があったから、私は嘗て室生さんの若さと題して、気の若い人だと褒めたことがある。確かに気の若いところは多分にあったが、どうも我ながらお世辞くさい。  しかし室生さんは若年の頃から骨董や庭いじりを好み、しかも横町の頑固おやじみたいなところを多分に持ち合せ、自ら野人を以て任じていた以上、年を取ることの技術は早くから身につけていた筈である。苦労をした人が早く老いるということはないだろうが、室生さんの自伝物を読むと、その辛酸は生じっかのものでなく、晩年の皺は一朝一夕になったものでないことが分るのである。「弄獅子《らぬさい》」は数ある自伝小説の中でもすぐれたもので、これは室生さんが市井鬼物を書き始めていた頃、つまり四十五歳位からの油の乗り切った頃に書かれているが、この頃から徐々に老境に向って歩みつつあった。しかし「弄獅子」の回想は、「杏っ子」の中に重なり合っている部分と較べてみると、まだ味が若い。それは「杏っ子」後半に見る室生さんの憤《いきどお》ろしい心境を経て、更に完全な老境へと進んで行くのである。  一般に老境というのは枯淡な境地を少しく美化して指す言葉だが、忌憚なく言えば老醜というものをもその中に含んでいる。そして私は、そういう部分をも含めて、室生さんという老人が大変好きだった。室生さんは女ひとを愛することを公言し、同時に多くの女ひとから愛された。老人にしてあれだけ愛されるというのはただ者でない。一体私は、室生さんがいつ頃から老人ぶったのだろうかと思って、作品をいろいろと読み返してみるのだが、「弄獅子」や市井鬼物の時代ではまだ一種のポーズにすぎず、やはり戦後の不遇時代、殆ど昭和三十年頃までの長い寡作時代に、老人ぶることから真の老人に進化したものだろうと思う。そして私のようにその晩年しか識らない者は、一体むかしは室生さんはどんな顔をしていたのだろうかと、想像に苦しむのである。  ところで室生さんが年寄扱いをされるのを好まなかったというのは、恐らくその顔のコンプレックスに発するものであろう。私なんかには(そして多くの女ひとも同意見だと思うが)室生さんの顔は実に老人の典型で、見れば見るほど飽きることのない深い内容を蔵していた。室生さんの御前に、数名の女客と同席してお話を伺う時など、先生は餓鬼と称する男性の方は殆ど見もやらず、専ら女性とお話をなさる。私はその間、微妙に変化するその顔の表情を、座談にも劣らないものとして興味深く眺めていたが、もじもじして下など向いていた女客は、その点大いに損をした筈である。  室生さんが御自分の顔を嫌われたのは何とも訝しいが、これは写真嫌いとも関係があるだろう。若い頃の顔はどうも写真うつりが悪くて、お世辞にも好男子とは言い兼ねる。私が写真機に凝っていたのはだいぶ前のことで、たしかヤシカルーキーという初心者向きの二眼レフで室生さんを写したことがあった。先生は厭そうな顔で横ばかり向いていられたが、しかし私は上手にうつしたと思っている。その次にこちらはもう少し高級な写真機を手に入れて、望遠レンズで盗み取りをしたが、これなどは実に傑作であろうと信じている。少々ピンぼけだが、それがソフトフォーカスの効果を出していないものでもない。  ところで何故にこの二枚が貴重な写真かと言えば、その顔がいいのは別としても、そもそも室生さんがこころよく撮影を許可した写真が、その頃までにはあまりないからである。ごく晩年になって、先生の人気が大いにあがってからでも、あまり穏やかな人柄には写っていない。おっかなそうな爺さんだという感じのが多い。つまり写真を撮られそうになると警戒心が先立つからに違いない。それは大いに残念なことだが、室生さんのそうした心境を示す未発表の文章を次に引用しよう。 「新聞や雑誌に有名老人どもの写真が出てゐるが、どれも口ばかりが大きくなり、平つたい顔にヨボヨボ雲が漂うてゐる。そのヨボヨボ面を見ると此方もヨボヨボだから不愉快は一層烈しい、口ばかり蟇のやうに大きいのは、六十年も悪食して来たから耳まで裂けんばかりなのである。写真は撮らせたくないものだ。」  これは昭和二十六年二月九日の日記である。日記はいずれ全集二巻を占める予定で目下鋭意編輯中だが、右のような面白い記事に充満している。日記のことはいずれもっと広告することにして、室生さんが口の大きな点にこれ程まで自己嫌悪があろうとは、ついぞ生前思い及ばなかった。私はいつも身体に較べて実に大きな顔だと思い、大きな顔によって歌舞伎役者を聯想していたのである。悪食のむくいと言っても、私の識っていた頃の室生さんは胃を悪くされていて、小鳥の擂《す》り餌《え》のようなものしか召し上れなかった。それを思い出すと、言いようのない寂しさを覚えずにはいられない。 [#地付き](昭和四十年九月)       五、文士の本懐  室生犀星全集がいよいよ完結を迎えるに当って、その最終巻の月報に筆を執るのは愉快の極みである。この全集が評判もよく売れ行きもまた宜しいというのは、編纂委員会の一人としてこんな嬉しいことはない。もとより私は委員会の驥尾に附して少しばかりの仕事をしただけだが、それでも室生さんが生きていられたら少しは褒めてもらえそうな気がする。  私が室生さんを識ったのは堀辰雄の歿後、軽井沢の室生さんのお宅に伺ったのが初めで、その頃の室生さんは、その生涯を通じて最も景気の悪かった時期に属していただろう。私もまたサナトリウムを出て漸く物を書き始めたばかりだったから、大して単行本が出ていたわけではない。それなのに或る時、たしか中村真一郎と同席していた折、君たちはよく本が出るねえと羨しそうに言われて返す言葉がなかった覚えがある。室生さんは戦後は殆ど小説集の上梓を見ず、はた目にも不遇のように思われた。室生さんの晩年は、昭和三十年の「女ひと」、昭和三十二年の「杏っ子」の出版によって衆目を集めるようになったのだから、それ以前は心中面白くないことも多かったのではないかと拝せられる。しかし私は室生さんからそういう訴えを聞かされたことはない。決して愚痴をこぼさず、自分の信念にあくまで忠実であり、他人に対して指を差すなどということはなかった。私たちは室生さんの日記の中に、その心中の憂悶を少しく推察することが出来る。  室生さんの不遇の時代が終ったのは、何と言っても「杏っ子」の成功であろう。それについては私も多少の功績がある。これは内輪ばなしに属するが昭和三十三年度の一月号から三月号まで、中村真一郎と加藤周一と私との三人が、「群像」の創作合評を引受けた。それを引受ける時に、私は何度も駄々をこねて、悪名高き三人組の雁首を揃えるのは得策ではあるまいと進言したが、どうしても聞き入れてもらえなかった。そこで一月号のための合評会を某料亭で行い、編輯部から指定された短篇数種をさんざんにこきおろし、速記が終って飯を食ったところで、私が余計なことを言い出した。今月の作品はすべて論じるに値いしないものばかりだった。しかし単行本を見まわすと、室生犀星に「杏っ子」があり、石川淳に「諸国畸人伝」がある。どちらも最近類を見ない傑作なのに、雑誌掲載の短篇ばかり追いかけるのはつまらないねえ。そうすると「群像」編輯部が、それでは明日またお集り願えるなら、取り替えても宜しいと言ってくれた。そこで翌日、我々三人は講談社の応接室で空茶を飲みながら、「杏っ子」と「諸国畸人伝」とを絶讃した。これはなかなかの美談であると思う。もとより「杏っ子」の評判が高くなったのはこの座談会のせいではないが、「群像」編輯部の寛容がなければ、少くとも私たちの気持は通じなかった筈である。室生さんは大へん悦ばれたらしく、私はすぐに礼状を貰ったが、その礼状は全集別巻の書翰の部にある。  ついでに私の方で室生さんを大いに徳とした話を一つ。Aという雑誌から私は百枚ばかりの短篇を頼まれた。この雑誌はやや中間小説的な狙いを持っているようだったから、私は幻想的な作品を書いて送ったが、程度が高すぎるというので、同じ社のBという雑誌に廻された。すると今度は程度が低すぎるというので没書になった。原稿も戻って来ない。私は何ヶ月か経ってから、たまたま室生さんに会った時に憮然としてこの話をした。室生さん曰く、文士たるものが原稿を頼まれながらその原稿料を貰えないということはあり得ない。載る載らないに拘らず、取るものは取るべきだ。何なら私から言ってあげようか。室生さんに口を利いてもらうのは大事《おおごと》になるから遠慮し、私が自分で手紙を書いて、無事に原稿を取り戻した。その手紙にちょっとばかし室生犀星の意見を附け加えておいた。効果は覿面《てきめん》で向うはさっそく原稿料の三分の一ほどをくれた。私はその原稿を一年ほど寝かしてからCという雑誌に載せてもらい、その雑誌の出ている本屋さんから短篇集を出す時にその中に入れた。室生さんの鶴の一声で、というよりもその一声の物真似で、私は大いに儲けたわけである。私が三分の一ほどくれましたよと報告した時に、室生さんは、何だ気の弱いという表情をされて、私ならそういう時は全部取る、だいいち手持のままの原稿なんか私には一つもないと仰せられた。  私が室生さんのお世話になったことは、この他にもまだ色々ある。しかし右の例などはまさに文士の心得というものであろう。手持のままであった日記書翰の類まで刊行されることになって、室生さんは文士の本懐を遂げられた。全集完結はまた私たちの本懐でもある。 [#地付き](昭和四十三年一月)  [#改ページ] [#小見出し]  追憶小品    高村光太郎の死  高村光太郎は、一時期、僕にとって「高村さん」だった。今、その死を聞いて心中を去来するものは、僕が親しくしていた頃の高村さんの思い出と、また死によって終った芸術家の運命といったようなものへの感慨である。  思い出に関しては、簡単に述べることはむつかしい。それは僕自身の精神形成の時代だったし、故人の思い出にかこつけて、自分を語ることは僕には好ましくない。従って僕は、ごく僅かをしか述べないだろう。  昭和十六年の春、僕は大学を出て、日伊協会というところに就職した。そこで新しく、「日伊文化研究」という雑誌を出すことになった。この協会の事務当局はみんな文学や美術の好きな連中で、特にこの雑誌に熱心だったのは佐々木基一だったように思う。皆が企画を持ち寄った中で、僕が最も熱心に主張したのは、高村光太郎にミケランジェロ研究を頼もうということだった。不可能説が多かったのだが、とにかく成否は僕の腕次第ということになった。そこで僕はおっかなびっくりで駒込林町のアトリエに出掛けて行った。  勿論僕は、予め手紙で自己紹介をして、許可を得て推参したのだが、林町の古ぼけた二階家の、厳重にしまった入口のドアの横手の小窓から、誰かにじろりと覗かれた時にはあまりいい気持はしなかった。しかも入口に現れたのは、身の丈は六尺に近い、白い柔道衣のような上っぱりを着た夫子自らだった。僕は玄関の横の、薄暗い書斎に通されたが、眼が馴れるに従って、部屋の壁という壁に美しい切紙細工が飾られているのに気がついた。高村さんはさっきの覗き窓のことを詫びられると(この広い邸に、高村さんは一人きりで住んでいるらしかった)、それから話がすぐさま夫人の切抜絵のことになった。それが僕の気持をすっかり落ちつけたので、人みしりのひどかった僕も、相当大胆になって彫刻の話なんかを始めることが出来た。  僕が高村光太郎の彫刻を初めて見たのは、その三、四年前、友人に連れられて秋田雨雀さんのお宅を訪問した折のことである。それはブロンズの「手」で、仏教の何とかいう印《いん》を結んだ形をしたもので、手のモデルは有島武郎という話だった。秋田さんはひどく御自慢だったが、実は僕も、それまでに彫刻でこんな素晴らしいものは見たことがなかった。それまで「道程」の詩人として敬服していたのが、その瞬間から、常にまず彫刻家として考えるようになった。従って初めてお目にかかった時も、話はロダンのことや、荻原守衛のことや、また父君高村光雲老のことが中心になった。というのが、僕が高村さんに好感を持たれた原因らしい。僕はミケランジェロの原稿を引受けてもらったから、だいぶ得意になって事務所に帰った。  それから再々、駒込林町まで原稿の催促に出掛けるようになった。原稿はなかなか出来なかったのだが、実は僕にとってもその方が好都合だった。何しろ大っぴらに勤めをさぼれるのだし、高村さんと話が出来るのは嬉しかった。  高村さんが彫刻家を以て任じていられるのは明かだった。ロダンのことが話に出るたびに、日本の芸術家は伝統がないために、三十年はおくれている、それだけ余計に仕事をしなければならないと言われた。——私はもうじき六十だが、六十になれば本当の自分のものが生れるだろうとも言われた。そうしたら「高村光太郎彫刻の家」というのを作り、そこに自分の作品を全部並べるつもりだというので、僕はぜひ受附をやらせて下さいと、申し入れたものだ。そういう時の高村さんの眼の耀きは、きらきらして実に美しかった。木彫の小さな蝉とか蛙とかいうのを見せてもらったが、大きな作品は決して見せようとなさらなかった。今日は一つ壊してしまった、と言われたこともある。つまり六十まではすべて実験だった。そのあとの壮観を僕は夢の中に描いていた。いずれ気に入ったのが出来たら、小さな木彫を一つあげようという約束も、やはり僕の夢を美しくしていた。  そうして、戦争になり高村さんの戦争詩が次々と生れた。僕は依然として原稿の催促に出掛けたが、高村さんの戦争詩を話題にのぼせたことはない。それまでに、僕は高村さんに自分の詩を見せるくらい大胆になっていたが、それはあまりに傾向の違うものだった。僕にどうして先生の詩を批評することが出来よう。一度、たしかシンガポールの陥落の時に、高村さんは昨晩電話で新聞社から詩を頼まれたので、と言われた。何でも海軍のばかり作ると、陸軍の方がそねむという話だった。その顔は気の弱そうな善意に曇っていた。僕は高村さんの戦争詩が不思議でならなかったが、高村さんの口にする天皇崇拝を、ぼんやり理解することは出来た。僕はそういう議論が苦手だった。高村さんの書斎のドアには、ドイツ軍によるパリ陥落の新聞記事が貼りつけてあり、高村さんのフランス贔屓と思い合せると、その戦争詩は矛盾のように感じられた。そこには美がなかった。そして高村さんは何よりも美を愛する人、戦争になって美が次第に喪われ、女性がモンペ姿になるのを苦々しく感じるような人だった。  こんな調子で書いて行けばきりがない。僕はやがて日伊協会を止めたし、ミケランジェロの原稿は遂に出来上らなかった。僕は次第に高村さんを訪ねることも稀になって行ったが、昭和十九年の冬、召集を受けてお別れの挨拶に行った時に、イタリア語の「ミケランジェロ詩集」を貰った。小型革製の古い版で、これならポケットにもはいるからと言われた。この天皇崇拝の戦争詩人は、一兵卒がイタリア語の詩集を征旅に偸み読むことを期待したのだ。僕が即日帰郷になって、意気揚々と高村さんの玄関に現れたら、先生は献辞を書いた以上、取り返すわけには行かないね、と言って少々子供っぽい、残念そうな顔をされた。あれは頂いておきます、と僕は言った。  戦後、僕は北海道にいて、岩手の山奥から長い手紙を貰った。それは親しみのこもった、そして高村さんの私生活に関しては勇気凜冽という感じのする手紙だった。それから交渉が絶え、僕は病気をしてもう訪ねて行くことも出来なくなった。当時、僕は高村さんを正面切って批判したことはないが、僕の友人たちが高村さんの戦争詩を批判したのは、僕も共同責任を負うべきものと思う。個人的な感情は、その時、問題ではない。ただ明治人として、高村さんほど自分の戦争責任を痛感した人は少なかっただろう。僕は友人たちの批判を、自分も同感であるが故に、高村さんに対して済まないことをしているように感じたが、それが僕の心を、高村さんに再び近づけなくした一つの原因だったのだろう。いつかお会いして色々と話し合いたいと思っていたが、遂にそのこともなく、ここに訃報を聞くに至った。  六十歳以後は続々と制作すると言われた高村さんは、岩手に引籠って、はかばかしいお仕事もなされなかった。詩人としても、「道程」と「猛獣篇」と「智恵子抄」の三冊があるにすぎない。すべては未完成のままに終った。もし戦争がなかったなら、と僕は考える。戦争さえなかったなら、高村さんの六十代は実りの多い収穫を実現しただろう。「詩は私の安全弁」ということを言われているが、高村さんは自ら彫刻家を以て任じ、その彫刻の世界には絶対に他者の容喙を許さないために、詩をその武器として純粋内部を守られたような気がする。それは僕の贔屓《ひいき》目かもしれないが、多くの戦争詩でさえも、彫刻の世界を守り切るための、軍部に対する一種の偽装であったように思われる。勿論、高村さんは明治人であり、天皇崇拝は生得のものだったろうし、嘘を言われた筈はない。しかし戦争詩の中の感激は空疎なものであり、彫刻に賭けられた情熱のごく僅かのものさえもない。戦後の詩もまた同様である。それらはすべて純粋なもののための自己弁解であり、時代の嵐に対する一種の防風林である。そして中心である芸術のために、(しかもそれは未完成だった)周辺のものをまで芸術的に描こうとしたところに、高村さんの悲劇があったように思う。三十年はおくれている国に生れた芸術家の、一つの運命をここに見るように思う。  高村さんは、客観的に見て、過去の人だった。しかし僕個人にとって、高村さんの死は痛恨に値いするのだ。ミケランジェロの原稿も出来上らず、木彫の小品も貰えず、イタリア語の詩集も焼けてしまった。しかし僕が受附をする筈だった「高村光太郎彫刻の家」が、もう決して実現することがないというのは、ただ僕ひとりの感傷というものではないだろう。 [#地付き](昭和三十一年四月)     神西清氏のこと      一  神西さんが不意に亡くなられてから、既に半月以上が経った今、僕にはまだそれが現実であるような気がしない。神西さんの病気は速かに進行したらしい。去年の暮に、堀辰雄全集の編輯会議でお会いした頃には、来年の春になれば良くなるようなことを、口にされていた。繃帯を首に巻いたその姿は痛々しかったが、元気は少しも衰えていなかった。仕事の量は次第に減っていたらしいが、河出の国民文学全集のために、今昔物語集と幾つかの謡曲とを現代語に翻訳される筈で、四月には始めるつもりで準備されていた。チエホフの全訳も計画されていた。そして恐らくは、珠玉のような幾つかの小説も。それらがすべて空しくなった今、神西さんの果された実際の仕事(それは確かに貴重なものに違いないが)と、未来に於て完成する筈だった茫漠たる計画と、そのいずれに真の神西さんの姿があったのだろうかと考える。僕の答は極めて簡単なのだ。神西さんは未来に於て生きていたし、常に現在に不満な人だった。神西さんはまだ本当の自分を見出されていなかった。これは、神西さんの仕事が本物でないという意味ではない。しかし神西さんがその作品を思案する時に、そこに理想像としての芸術家の姿が閃き、その理想像から生れて来る作品でなければ、本物でないと神西さん自身は考えた。あまりに潔癖に、あまりに厳格に。従って神西さんの仕事(ここに仕事というのは翻訳のことではない)が多く未完成であり断片的であるのは、未来に於ける最良の部分から作品が謂わば盗まれて来た結果であり、作品が全的に完成するのには、まず理想像が完成することが必要だった。何という厳しさ、と言うほかはない。僕たち若い小説家は、どんなに潔癖でも、もっと生まのもの、未熟なものを創り出し、それを創ることで理想像の方に近づいて行く。しかし神西さんは、常にまず理想的な芸術形式が眼に見える人、自己に対して峻厳な批評家だった。  堀辰雄と神西清とは、宿命的な友情で結ばれていた。堀さんの死後、神西さんはどれほど親友の芸術のために、その芸術をひろめるために、努力したことだろう。しかし宿命的なのは、何よりも神西さんにとってだった。堀さんはその芸術の旅程に於て、一つ一つの宿場ごとに作品を完成し、それから次に進んだ。神西さんは友人の仕事を見詰めながら、自己の芸術が全的に成熟し、理想像が完成するのを待った。ここには多くの問題があるが、簡単に言い尽すことは出来ない。とにかく神西さんに必要なものは時間、それも充分に燃焼し、燃焼したことを自己が承認できる時間だった。翻訳などというものは、単なる生活の資にすぎない。しかもあまりに語学に巧みであり、あまりに異邦の作家への理解が行き届いたために、神西さんは翻訳家としての名声を malgre lui に手に入れてしまった。未来の小説家として完成する以前に、不意に喪われたこの貴重な時間を想えば、黯然たる気持を禁じ得ない。その時間を回復することは、もう誰にも出来ないのだ。      二  神西清氏は何よりもまず小説家だった。氏の若年にして書かれた小説集「垂水」や、近作の「少年」を見れば、氏がいかに精髄のみをしか発表しない、頑なな小説家であったかが分るだろう。  氏は本を作ることにも慎重だったし、「灰色の眼の女」とか、「血の畑」とか、「雪の宿り」とか、一見して未完の如き作が幾つもある。氏は数少ない作品に全力をあげてぶつかり、しばしば自己の非力を嘆かれたようなところもある。それは氏の理想があまりに高く、眼高手低の感を伴われてのことだったにちがいない。  神西氏は批評家として一流だった。表面の文学の底に内部の思想をよみとり、真実を見わけることは他人にも自分にも厳しかった。自分に対する厳しさが、小説を書く手を遅くしたのかもしれない。他人の作品に対しては、決して秋霜の感じではなく、暖か味のこもったしかし的を射た批評をされた。二枚の書評のために、その著者の全作品をよみ、一週間も十日もかかるということさえした。氏の才能を以てすれば、たかが一時間とはかからなかっただろうに。そういう入念なやり方が神西氏の文学に対する態度をよく現している。  氏は軽妙な座談と鋭利な批評とによって、後輩に対する親切な指導者だった。堀辰雄に寄せた友情は、僕たちを感動させた。どんな小説に対しても理解の深い人だったから、神西氏を喪ったことによって、僕たちは燈台の灯が一つ消えたような気がする。フランスやロシアの文学にも明るく、翻訳家としても知られていたが、それも良心的であるが故に未完成だった小説家としての本領を、覆いかくすものではなかったように思う。 [#地付き](共に昭和三十二年三月)     ゆうべの心  原田義人が死んだ。八月一日午前七時。病名は癌性腹膜炎。  そのしらせを、信濃追分で受け取った。二日の晩のお通夜に間に合うよう、中軽井沢発十八時十分の準急に乗り込んだが、たまたまこの夜は猛烈な雷雨が東北関東を襲って、汽車は途中で立往生したまま動かない。桶川という小さな駅に二時間ほど止っていたから、電報を打ち、それからひっそりした駅前の通りを歩いて行って、飲み屋からビールを一本と、細君のためにジュースを一本買って来て、客車の中でお通夜をした。東京に着いたのは夜中の二時である。  次の三日の日は暑かった。告別式は正午過ぎに行われたが、誰しも汗にまみれていた。済まんなあ、こんなお葬式で、と彼が持ち前の大きな、少し嗄れた笑い声を発しながら、僕等のそばを動きまわっているような感じを、拭い去ることが出来なかった。早目に辞して、十六時四十分上野発の鈍行で信濃追分に帰った。帰ってからも、心が落ちつかず、原田が死んだとはどうしても思えなかった。  六月に原田が入院したと中村真一郎から聞いて、事の重大性は直にぴんと来た。行ってみると、原田は病人としての経験がなくて、まだ起き上って飯を食っていた。といってもごく僅かのものを摂るだけだったが。七月の初め、僕が国立第一病院で診てもらったことのある、高等学校時代の友人河野実と相談し、また加藤周一の意見も聞いて、原田を第一病院に移した。それは設備の整った病院に移せば、万一、別の診断も下るかと望んでのことだったが、河野医師の診断も変らなかった。つまり本人と家族とは知らないけれども、友人たちは最早望みのないことを、殆ど望みのないことを、しらされた。僕たちには何が出来るのか。僕は病人としての経験を語って、寝たまま飯を食う方法とか、ポチ(尿器のこと、彼はこの渾名を聞いて大いに笑った)の使いかたとかを教えた。しかし僕はまた、友人が病気で死んで行くのに僕たちは何も出来なかったという、陰鬱な経験をも持っていた。  七月中旬に僕は信濃追分へ来た。もうこれ以上、僕と細君とに出来ることはないと自らきめて、あとのことは中村真一郎や加藤周一や白井健三郎や若い独文の人たちに頼んだ。河野医師や原田の奥さんの手に委ねた。僕は小さな絵を幾枚も描いて、病床の原田に送った。今年の夏は暑く、病人もさぞ苦しいだろうし、彼の世話をしている奥さんや友人たちも大変だろうと思った。  追分に来る前の晩に、おそく、彼に会いに行った。あと幾日ぐらいでこの痛みが取れるだろうか、と彼は訊いた。答えようがなかった。  原田は気のいい奴で、僕等が「方舟」という雑誌を出して以来、船長だった。彼と話をするのは実に愉しかった。彼は仲間に対しても遠慮のない批評家で、その批評をデリケートな言葉、態度、やさしい心遣いに包んでいた。あの大きな笑い声、皮肉な眼くばせ。しかし彼の心の中で、芸術家の魂が平俗な日常に虐まれて、常に悶えつつあったのだ。  蕪村の「晋我追悼曲」を次に引こう。原田よ、これを僕のペダントリイだと、君は責めはしないだろうね。   君あしたに去りぬゆふべのこころ千々《ちぢ》に   何ぞはるかなる [#地付き](昭和三十五年八月)     「我思古人」  堀多恵子さんのところに、明清時代の印顆が十二個あって、それを私がよほど欲しそうな顔をしていたものか、そのうち二つだけあげてもいいわと夫人が言ってくれた。いずれも逸品揃いで、例えば厳一萍の「篆刻入門」のおしまいについている印人伝略を見て調べると、殆どが明清の一流の印人の作品に属する。しかし中でも素晴らしいのは明の徐文長の「我思古人」であろう。黒い飴を煉り固めたような面白い形の石に刻んだもので、辺款に「己卯小春日 天池」とある。己卯は万暦七年、西暦一五七九年に当る。  この十二個の印顆については、堀辰雄の随筆「我思古人」に見えているが、これらは多恵子夫人のお父さんが広東革命の際に清の高官から譲り受けたものだそうだ。堀さんの歿後、多恵子夫人は形見分けにこの「我思古人」を室生犀星に貽《おく》ったところ、室生さんはこれは私には分に過ぎるから、死ぬまであずかっておく、とおっしゃったそうである。そこで室生さんの亡くなられたあとこの印はまた多恵子さんの許へ戻り、そこで私がちょっと借り受けて目下机上に置いて愛玩しているわけだが、室生さんでさえ分に過ぎるというのでは、私が貰うわけにはとてもいかないだろう。  徐文長は正徳十六年に生れ万暦二十一年に死んでいるから、その生涯は嘉靖隆慶にわたる十六世紀の中葉であった。徐渭、字は文清、のち文長と改め、天池生、田水月、青藤山人などと号した。青木正児博士の「支那文芸論藪」のうちに「徐青藤の芸術」という詳しい紹介があることは、堀辰雄もその随筆に述べている。私も青木博士のこの論文によって、徐文長の何者であるかを知ったことを白状する。  そこで私如きが、青木博士に導かれて徐文長の生涯をいちいち書くにも及ぶまい。私はこの頃、袁中郎の評のはいった「徐文長全集」を手に入れて、暇にまかせてぽつぽつと読んではいるが、私の学力では隔靴掻癢といったところである。この全集には袁中郎と陶望齢による徐文長伝が巻頭にあるが、後者に「嘗言吾書第一詩二文三画四識者許之」と見える。徐文長が自ら得意とした順序はこのようだが、私は詩と文とを少しく見、かつ篆刻一顆を手にしたばかりで、その書と画とはまだこれを知らない。しかし彼が最も名を得ているのは画家としてであろうし、それも花鳥に秀でていたことは彼に多くの題画の詩や画賛があることでも明かである。その上「四声猿」を初めとする戯曲やまた小説なども書いている。手がけたジャンルはすこぶる広く、一代の秀才であったことは間違いない。  しかし徐文長の特徴を一言で言えば、不遇な芸術家、フランス風に洒落れて言えば poete maudit ということになろう。袁中郎撰伝はごく短いものだが、世に容れられず悶々として作ったその詩の特徴を次のように書いている。「其胸中又有一段不可磨滅之気英雄失路托足無門之悲故其為詩如嗔如笑如水鳴峡如種出土如寡婦之夜哭覊人之寒起。」また「文長眼空千古独立一時。」と言い、当時の役人や芸術家をしょっちゅう叱りとばしていたので、その名が越から外に現れることがなかったと歎いている。  徐文長は若くして文章家であり、試験に落第ばかりしていたので、結局は浙江の総督胡宗憲につかえて上奏文の代筆をすることでその文章を役立てていた。総督が失脚すると連座を懼れて自殺をはかり、またその妻に嫉妬してこれを殺してしまい、「狂疾不已」して獄につながれるという羽目にもなった。彼が四十五歳で書いた「自為墓誌銘」の文章は、袁中郎の評に「傷魂動魄」とある。晩年に孤高狷介でいよいよ不遇であり、間居してその書屋に藤を植え庭に池を築いて天池と名づけた。従って「我思古人」の辺款の「天池」はごく晩年の号で、彼はその時五十八歳である。  ところでこの呪われた詩人は、一方に於て民衆の絶大な人気を集めていた。中国の民俗学は周作人によって開発されたが、林蘭女士の「徐文長故事」は日中戦争以前に出版され、その中には、徐文長の故郷である浙江紹興地方を中心に流布している民間伝承が広く蒐集されている。私は現代中国語はとても読めないから、昭和十八年に「徐文長物語」という題名のもとに原文つきで翻訳された書物に頼って一読したが、ここでは徐文長は奇智縦横の頓智の名人であり、謂わば我が国の一休さんに似た存在になっている。民話であるから、小便を引っかけたとか糞をしたとかいう話がたいへん多い。ためしに一つ例をあげてみよう。  或る時のこと、文長さんが友達のところへ遊びに行った。この友達はしきりにお茶をもてなしてくれたが、そのお茶にこっそり緑藻の粉末を入れて飲ませた。これは利尿効果があって、たちまち催して来るのだそうである。さすがの文長さんも敵の計略にしてやられたことを知り、そこで敵討を考えた。たまたま壁を見ると、そこに「物帰原処」と大きな字で書いてある。これこれとばかりさっそく茶瓶の中に小便を垂れた。友達が憤然とすると、答えて曰く、君もあそこに書いてある字の意味は知っているだろう。物はもとの処へ帰るんだから、私の飲んだお茶ももとの処へ帰るのが当然さ、そうじゃないかね。  この話でも文字による洒落が生かされていて徐文長の詩人としての特徴が保存されているが、中には他の地方の人物と混同した説話もある。ただ民衆がこの偏窟者の詩人に深い敬愛を注いでいたことが、どの話からも充分にうかがわれる。  徐文長の名は、文学史の上では「四声猿」の作者として僅かに知られる位で、詩人としての位置も、例えば沈徳潜の「明詩別裁集」にただの一首しか採られていない位である。美術史の上でも傍流というにすぎないだろう。しかし後世まで多くの説話によってその名を伝えられたという点、以て瞑するに足りるかと思われる。  徐文長が民間伝承の主人公であることは、取りも直さず彼が古人であることを示していよう。十六世紀中葉といえば、モンテーニュやルターやラブレーやミケランジェロの同時代人である。我が国では戦国時代の動乱の央である。中国では「古文辞」によって古典主義の復活が称えられ、やがてその反動として袁中郎一派の公安派が生れて来る時代である。古典として仰がれていたのは、文は秦漢、詩は盛唐、即ち八世紀以前のものでそこには既に長い歴史があった。  徐文長が「我思古人」の印を小春日のつれづれに彫ってから既に四百年が経っている。私はあずかりもののこの印顆を掌の上に載せて、亡くなられた室生さんを想い、堀さんを想い、古人である徐文長を想い、また更に古人である唐の詩人たちのことを想うのである。 [#地付き](昭和三十八年八月)     天上の花      一  四月五日、三好達治の訃報が俄に到った。私は殆ど耳を信じることが出来なかった。それは誰しも同じ想いであったろうが、私には特にその感が深かった。というのは四月一日の夜、室生犀星全集編纂委員の人たちが、全集第一巻の上梓を祝って牛込のむさしのに集まったが、中野重治、窪川鶴次郎、伊藤信吉、奥野健男の諸氏と共に、三好さんも元気な姿をそこに見せていられたからである。私は病気あがりでコカコーラなどを飲み、三好さんは盃を傾けて、僕は酒は好きじゃない、酒を飲む空気が好きなだけだ、というようなことを口にしながら御機嫌が宜しかった。私たちは過去二年ばかしの間に、無慮何十回かの委員会を開いたが、会が終ってむさしので夕食となると、中野さんと三好さんとのお二人は談論風発で、こんな面白い聴き物はまたとないと思われる程だった。しかしこの一日の晩は、中野さんも身体の調子を悪くされているとかで殆ど三好さんの独壇場だった。近頃出版されたトロツキイの伝記が如何に興味津々たるものであるかとか、室生さんの詩「松のしん葉しんたり」は「松の葉しんしんたり」の誤植であろうとか、それからそれへと話の止まるところがなかった。会がはねて、君も一緒に行かないかと誘われたが、私は静養中なので遠慮し、奥野君がお伴して渋谷辺で二次会が持たれたとのことである。コカコーラで附き合うのは心外だが、御一緒すればよかったと歎かれる。翌々三日に散歩から帰られて不調を訴えられ、四日に入院、五日の朝亡くなられた。病名狭心症。事急にして愕くほかはない。  三好達治の詩集「測量船」は、むかし私及び私の同時代の学生たちに日本語の美しさを教えてくれた。私などは旅行鞄の中に「春の岬」や「南窗《なんそう》集」を入れて歩いたものである。私は「四季」に属していたわけではないから、三好達治の人物は識らない。遠くから敬愛していただけである。戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた。そこで私の内部に愛しかつ憎むという複雑な感情を生じさせた。この一種の恋人的感情をもって、たまたま数年前、渋谷の某酒店で三好さんにお会いした。殆ど初めてお会いした。  三好さんと石川淳さんとの二人の間に割り込まされて、既にお二人は酩酊、石川さんはいい鴨が来たとばかりに私に絡み出したので、私は石川さんに失礼ながら背中を向けて、三好さんに絡むことにした。三好さんもさぞ面くらったことだろうが、ひらりひらりと体をかわして長年研ぎすました私の剣を避け、そのうちに何が何だか分らなくなってお開きとなった。  私が真に三好さんと親しくなったのは、この二年来、室生犀星全集の編纂に共に関るようになってからである。もともと話の合いそうな人だと思っていたが、忽ち気が合ってしまった。詩の話、それも室生犀星や萩原朔太郎の話になると、三好さんは実に倦むことを知らない。当方もややその傾きがある。三好さんの使う二人称代名詞は、初めのうちは君だが酔の廻るにつれてお前に変る。その談論は鞍上人なく鞍下馬なしといった趣きがあった。  三好さんの詩集については俄に説きがたい。フランス文学と漢文学とにわたった教養によるその業績は、孤独なもの、独自なもの、繊細なものであり、必ずしも充分に理解されていたとは言えないような気がする。確かに国民詩人と呼ぶにふさわしいスケールを持ったが、人目を惑わすきらびやかなものはなかった。靱い人ではあったが寂しい人であり、その詩もまた心の内なる声に聴き入る底《てい》のものであった。  詩人は常に、あまりに早く生れすぎたかあまりに遅く生れすぎたかというヴェルレーヌの歎きを共にしている。三好さんは芸術院会員であり名声は俗世間に聞えていたが、どこか不遇の人という印象を否み得なかった。骨のある人であり書生の気概を常に持っていられた。吐露し得ないものがまだまだ蔵せられていただろうに、その声をもう聴くことは出来ない。   山なみ遠に春はきて   辛夷《こぶし》の花は天上に  これは三好さんが筆を持つたびに好んで書かれた文字である。三好さんの亡くなられた日から、都は折からの陽気に桜は満開となり、遠山《とおやま》なみにも春の訪れは早いであろう。三好さんも遂に天上の花となられた。その実感はこれからゆっくりと私たちに来ることと思う。まことに三好さんの印象は、塵界を避けて山野に高貴な白を誇る辛夷の花の如くであった。 [#地付き](昭和三十九年四月七日記)       二  詩人というのは、どういう面構えをしどういう気質を備えていれば一番その名にふさわしいのか、私はよく知らない。またその立居振舞も何を以て範とするか、容易にさだめがたい。というのは、詩人という職業——天職というべきか——は近頃ではいよいよ払底して、身すぎ世すぎのためには他の職業をも兼ねなければならず、或る詩人は学校の教師であり、他の一人は銀行員であり、或る者は出版社の編輯員、或る者はバアのマダムであるということになる。その結果、果して彼等、或いは彼女等のうちのどこまでが詩人としての属性であり、そのどこまでが教師、銀行員、編輯者、マダムとしての属性であるかを、区別することは難しい。ついでに詩人が小説家を、或いは批評家を兼ねている場合にも、そこにはやはり純粋に詩人だけである人物と較べて、どうも夾雑物を含むようである。ことほど左様に、醇乎たる詩人はめったに見つからない。  という枕によって私が言いたいのは、勿論三好達治のことである。三好さんは詩人以外の何ものでもない人だった。兼職のようなものはなかった。もっとも芸術院会員ではあったが、私は何も皮肉を言うつもりは毛頭ない。芸術院会員となってからの三好さんが、その詩品に於ても、その人格に於ても、値打を下げたということは考えられないのである。  三好さんに親しく接したのは、亡くなられる迄のほんの一、二年のことにすぎず、それにお宅に伺ったことはないからその行住坐臥に関してまでは知らない。しかし私の見た限り、これほど詩人を絵で描いたような人はまずこの人限りではなかろうかと思う。私は長い間、その人を知らずに作品に親しんで来たが、実物の印象は文学的印象とぴったり一致して間然するところがなかった。詩に於けると同様の抒情的なやさしい持味、随筆に於けると同様のぴりりと胡椒の利いた毒舌、まさに私の予期した人物と寸分違わず、文は人なりという格言を眼のあたり見せてもらった。和服の着流しに悠揚たる歩きぶり、畳み込んだようなややせっかちな口の利きよう、ひと度興到れば一瞬も滞るところがなく、時々大声の笑いを混え、しかも肩の張ったどこかしら寂しげな後ろ姿、つまりはこれこそ詩人の風貌であり気質であると会得した。その話が多少とも議論めいて来ると、こちらを対等に扱ってくれる、というのは噛みつかれるということだが、それ位若々しくて、年齢というものを感じさせない。しかしその話には深い学殖と余人の窺い知れぬ苦《にが》い人生体験とが滲んでいて、思わず聴き惚れる。そういう人であった。  三好さんが存命ならば、訊きたいことが沢山あった。気安く議論の出来る人だったし、教えを乞うのにちっとも遠慮せずに物が言えた。共通の話題も少なくなかった。しかし今となってはすべて繰り言である。三好さんは自ら老書生と称されたが、ああいったタイプの老書生は、例えば辰野隆先生にも見られた。お二人が相継いで亡くなられてから、もう私の知る限りその名にふさわしい人はいない。また文士とか文人とかの名称を考えると、なるほど最後の文士に高見順氏あり、最後の文人に石川淳氏ありということになろうが、三好さんもやはり、文士とか文人とか呼ぶにふさわしいものを持っておられた。サムライという感じは中野重治氏だが、三好さんも亦サムライだった。しかし何よりも、最後の詩人であったというのが、最も三好さんを飾る言葉であろう。  一人の詩人のすべての詩が美しいということはない。しかしすべての詩が、必ずや、その詩人一人だけのものであるということは言える。そしてそれは必ずしも容易なことではない。私は三好達治全詩集の全部が傑作だとは思わないが、しかしどの一篇を採っても、自《おのずか》ら流れ出した三好さんの魂を感ぜざるを得ない。三好さんは自分を取り囲む一切の風物にその魂を流露せしめることの出来る人であり、謂わば詩に遊ぶことの出来る人であった。従って机に向っている時ばかりでなく、私のような後輩のつまらぬ質問に答えているような時でも、その詩心は常に充ち溢れていた。詩人であることは、詩を書くという作業によって詩人であることは勿論だが、その日常に於ても、その無心の行為に於ても、更に言えば芸術院会員であるとしても、詩人たり得るのである。その点三好さんほど詩を愛し、詩に生き、詩に死んだ人は、これからもう現れないような気がする。抒情詩というものの運命とも、また私たちの生きている時代とも、それは密接な関係があるのだろうが。  三好さんは詩人であり、文人であり、サムライであった。良い時代に生きた資質稀な大詩人だった。そして最後の人と私が呼びたいのは、三好さんがその死と共に、私たちの間から最も貴重な何ものかを運び去って、私たちには最早その空隙を埋めることが出来ないからである。 [#地付き](昭和三十九年十二月)  [#改ページ] [#小見出し]  回想    知らぬ昔      ——知らぬ昔と変りなきはかなさよ。[#地付き]木下杢太郎   僕は高等学校を卒業する間際に、ちょっとばかしはかない、片恋のようなものをしたことがある。  高等学校が、それまで長く住み馴れていた本郷台から、場末の駒場に移転になったのは、僕等が二年だった年の夏休みで、計算で行けばちょうど半分ずつ両方の土地を知っていたことになる。従って後に、本郷と駒場との比較論が話題にのぼる度に、僕等は一番正確な材料を持っていたわけだが、移った当座は皆目様子が分らなくて困った。渋谷の盛り場は百軒店で、その辺は当然、古くからの学校が縄張にしていたから、僕等は肩身の狭い思いをしながら、表通りしか歩けなかった。それに何かと口実をつけては本郷の古巣に舞い戻る。それでも僕等が卒業する頃までには、もう新しい土地の方がすっかり馴染になっていた。  馴染といっても、僕なんかごく大人しい方だ。僕は三年になってからは家から通学していたし、寄宿寮にいる連中のように夜おそくまで飲み歩く真似は出来ない。親父とは、高等学校に入学したての嬉しまぎれに、つい禁酒の約束をしてしまった。何しろ酒といったら正月の屠蘇《とそ》しか嘗めたことのなかった年頃で、母方の祖父が酒で生命を縮めたような話を聞かされると、深くも考えずにうんと言ってしまった。入学して、寄宿寮では弓の部にはいったが、運動部の生活で、酒を飲まずに過すというのは大変むつかしい。それでも大して憎まれもせずに済んで三年の年の夏、一高対三高の定期戦が京都で行われたあと、責任を果してほっとした気のゆるみか、此所でなら親父にばれる筈もあるまいという悪心の兆しか、つい琥珀色の液体を口に含んでみたのが親孝行のおしまい。そのあと東京へ戻ってからも、飲みたくもあるし親父の眼も怖いしで、たまたま秋の行軍で榛名へ行く前の晩、寮に泊り込んだのをいいことに大酒を飲み、あげくに眼鏡を割って行軍の間じゅう不自由をした覚えがある。その他は、隙をうかがっていても、ふだんは夕刻までに家に帰るからそうそう飲む機会はなかった。二月一日の紀念祭も、卒業の前だけに、名残惜しくて誰しも盃を重ねるものだが、駒場では気分も出ず、通学生では自由も利かず、それやこれやでどんな浮かれかたをしたことやら。何しろ卒業試験と大学の入学試験と、二つ重なって眼の前に控えている以上、怠け者の学生には酒の味も苦くなる。  何ということもなく、落ちつかぬ日を送っていた。大学を文科にするか法科にするかというのが、ぎりぎりまで極まらなかった。僕は文丙でフランス語が専門だが、文乙のクラスで、西田と田中の二人が、大学の仏文科に行くという。この二人はどっちもフランス語なんかABCも知らない、僕を船頭にして仏文科を乗り切ろうという魂胆だから、顔を見るたびに是非一緒にと催促する。僕も勿論その気なのだが、親父がどうしても承知しない。三人で学校をさぼっては、渋谷の駅の前の東京パンの店に陣取って、いつも評議をした。他に文乙のクラスの連中が一緒にいたこともある。僕は四角な柄の部分にトランプの絵姿を塗った、玩具みたいなナイフを持っていたが、連中が勝手なお喋りをしている間、東京パンの木のテーブルに、大きく、何日もかかって、NIETZSCHE と刻み込んだ。何もニイチェに凝っていたわけではない。ただ自分の意志を通せないでいるのが哀れで、超人にあこがれたものだろう。僕の親父は、やはり高等学校の頃、岩本先生にドイツ語を習ったそうだが、「三四郎」に出て来る「偉大なる暗闇」のモデルと言われるこの老先生は、文科へ行くと乞食になるぞと、若い連中をおどかしたらしい。親父の筆法がそっくり岩本さんの受売だった。僕は西田と田中とのあとにくっついて、辰野隆先生のとこへ出掛けて行き、仏文へはいるのはどんなものでしょうとお伺いを立てたが、初対面の先生は、気軽に、ああ止したがいいな、と言われて、大いに消耗した。また西田という男は横光利一の門に出入していたので、誘われて小説の神様を拝んだこともある。横光氏は当時パリ帰りで、約一時間ばかりフランス文化と日本文化との比較論を、ヴァレリーなどを引用しながら聞かせてくれたばかり、肝心の文科がいいか法科がいいかは、僕が臆病で聞き出せなかった。横光氏の仕事机の上には、ばかに大きなスタンドがあって、ちょうどこちら向になっている横光氏の後ろから、後光のように眩しい光線が射している。ちょっとした劇的効果だがこれは計算のうちにはいっているのかしら、と若い高校生は不遜なことを考えていたから、神様の権威も大したことはなかったらしい。  そろそろ試験も近くなって、真面目な連中は試験勉強を始めているが、僕等は授業にも出ないで、渋谷のあたりをぶらぶらし、冷たくなったコーヒーの前で時間を潰した。田中も西田もドストイェフスキイに夢中で、確かその一年ばかし前、僕が「悪霊」をまだ読んでいないと白状すると、田中が文学を語る資格なしというようなことを言った。慌てて一読に及び、大いに感嘆して読後感を一席やったところ、  ——三べん読まないうちは「悪霊」は分りゃしないよ。  簡単にやっつけられた。西田の方は無口で、目黒の辺の物凄くきたないアパートに一人で暮している。時々、御託宣のようなことを言って、暗に僕等を軽く見ているらしいが、それは先生の横光利一の影響というより、確かにスタヴローギンを以て自ら任じているのだと僕は睨んだ。田中の方にも同じような秘密の匂いがあって、どんな生活をして来たものか全然打明けない、それでいて話の端に、僕が北京にいた頃にね、などと洩らす。文学論はしても、書いたものの一行も見せてくれたことはない、勿論発表したこともない。ただどうも少しお喋りで、従ってピョートル・ベルホヴェンスキイの方に余計に似ている。僕は絶えて久しく彼に会わないが、きっとピョートルなみに、巧みに世渡りをしているだろう。スタヴローギンに似ていた西田の方は、大学を途中でやめて郷里に帰ってしまったが、脳を悪くして若く死んだということだ。田中も西田も、初志通り仏文へ入学したが、肝心の僕が一緒に行かなかったので、次の年、僕が後を追って仏文にはいってみた時には、諦めて退学してしまっていた。さぞ怨んだことと思うが、所詮は仏文をやるのは無理だったろう。  結局僕は法科を受けることにしたが、気乗がしないから何も勉強しない。フランス語の小説などに読み耽っている。大学よりも、高等学校の卒業試験にパスするかどうかが怪しい。一学期と二学期とに、注意点や落第点を取った課目が幾つもあるし、出席日数だって危いものだ。それなのに、毎日ぶらぶらして、渋谷の界隈を歩き廻っている。と、不意に、好きな人が出来てしまった。東横グリルのレコード係のメッチェンである。  そういう話は、僕の他にも沢山ある。僕はその時、数え年で二十歳だったが、誰しも豊富な空想力を持っているから、直に自分でつくった夢を現実と思いこむのだ。僕の友人で、渋谷にある百貨店の七階の大食堂に勤めている女の子に、すっかり夢中になった奴がいる。日課のように、寮からそこまで飯を食いに行く。そうしているうちに、何かの都合で少女は不意に職場から姿を消し、今度は東北本線の食堂車の給仕になった。勿論そのことを探り出すためには、余程の苦労をしたことだろう。それに行先が分ったからといって、まず普通なら諦めてしまうところだ。が、彼は一週に一ぺん、東北本線に乗り込んで宇都宮まで往復したそうだ。汽車の間じゅう、食堂車に腰を据えたきりで。少し話がロマンチックに出来すぎているかもしれないけれど、僕は何だか涙ぐましくて二人が幸福になってくれればいいなと願った。しかしその話もいつしか立ち消えになって、友人の方はあっさり食堂車の恋人を忘れてしまったらしい。情熱が褪めてしまったのか、汽車賃が続かなかったのか、その辺のとこは僕は知らない。  それは映画館の地下室にあったグリルで、僕等は此所にもよく陣取ってビールを飲んだものだ。だだっ広いところに丸テーブルが並んでいるが、その隅に、ちょっと一段高くなって、小さな控えの間のようなものがあり、薄紗のカーテンが垂れている。その間からいつも、たえなる、と言いたいが実は「青きドナウ」とか「カルメン」前奏曲とかいった底の通俗音楽が、蓄音器で奏せられていた。蓄音器の側に若い娘が一人いて、レコードを掛けたり外したりしているのが、カーテン越しに見える。ただその部屋はいつも仄暗かったから、面だちは定かには分らないし、また決してカーテンを明けてグリルの方へ出て来ることもない。そのメッチェンが、何時からともなく気になって来た。  誰と一緒にそこでビールを飲んでいたのかは忘れたが、どうせ試験も間近の頃だから、怠け者の西田や田中だったに違いない。僕はビールを飲んで少し元気が出たものだから、えいとばかりに席を立って、背中に仲間の者たちの視線を痛いほど意識しながら、カーテンの間からレコード室にはいった。蓄音器の側に腰を下していた女性が、おどろいたように僕の方を見た。  ——どんなレコードがあるんだか、ちょっと教えてほしいんだけどなあ。  早口に、とにかく、それだけ言った。レコードにろくなのはなかった。彼女はそれにあんまり音楽に詳しくはないらしく、僕がむつかしい曲を訊くと困った顔をした。その困った顔が、翳りがあって、魅力的に映った。  それから、どうしても、彼女のことが忘れられなくなった。僕がその部屋にいた間じゅう、彼女は少しも笑わなかった。歯を見せることもなかった。馴れたらせめて、お愛想笑いくらいしてくれるだろうか。馴れるためには、毎日、グリルに通わなければならない。それから勇を鼓して、カーテンで仕切られた部屋にはいらなければ。僕はびくびくして、いくらビールを飲んでもいっこう酔が廻らなかった。こう気が弱くちゃ駄目だ。思いあぐんだ末、もう一度レコード室に駈け込むと、暗誦するように、  ——君、ここんとこにね、君の名前を書いてくれないか。  彼女は恥ずかしそうな顔をしていやいやをしたが、僕は万年筆を彼女の手に握らせ、教科書かなんかの白い裏表紙を差し出したまま、その場を動かなかった。何だか急に勇気が湧いて来て、履いている靴の踵が床にくっついてしまったようだった。彼女は左手を曲げて、書いている字を隠すようにしながら、署名をした。そして澄んだ声で(僕はきっと、「わたし字が下手なんですの、」とか何とか言うものと思ったのだが)、  ——此所へはあまりいらしてはいけませんわ、監督さんがうるさいんですの。  まるで弟にでも諭すように。  卒業試験が近づいても、何もやる気がしない。卒業できなければ文科も法科もない。少しやけくその気味があった。レコード係のメッチェンのことがいつでも頭の底にこびりついている。そこで僕は、試験勉強はそっちのけで、恋文を書いたのだ。僕は高等学校の三年で、試験が眼の前に迫っているけれどあなたのことが気になって何も勉強が出来ない。いっそ落第した方がいいような気がする。落第すればもう一年駒場にいられるから、あなたと友達になることが出来る。僕にはその方がよっぽど嬉しいのだ。——といった具合。たしかゲーテか何かの引用まであった筈だ。  彼女のくれた署名というのが読みにくい代物だった。よく映画スターなんかが、ひどく気取って草書にくずして書く。そのような崩し字で、人にたずねるわけにも行かないから、さんざん苦労をして判読すると、東横グリル気附で手紙を出した。差出人のところは寄宿寮の心やすい部屋を住所に、勿論本名のままだった。返事はなかなか来なかった。  試験が済んでも、何だか気まりが悪くてグリルへは足が向かなかった。法科の入学試験の答案は、いい加減に書いた。いい加減に書いてもこっちの方はパスするだろうという気があったのと、法科なんか落っこちた方がいいや、という不逞な考えと。成績が発表になり、高等学校の方はどうやら卒業していたが、大学の方は見事に落っこちていた。そして彼女からの返事は相変らず来なかった。  浪人になってみると、こんな味気ないことはない。落っこちた同士が一緒になって、グリルでやけビールを飲んだが、気がついてみると、しんとしていつものようにレコードが鳴っていない。どうしちゃったのか、彼女。僕はカウンターで訊いてみた。  ——**さんはお休みなの?  ——どなたでしょう?  ——ほら、レコード係の人。  ——ああ××さん(それがまるで別の名前だった)、あの方おやめになりました。  僕は何だか頭がくらくらした。つまり僕は、あの草書体の署名を全然別なふうに読み違っていたのだ。だから僕の書いた宛名は、実在しない人物だったわけで、果して彼女の手に落ちたのかどうかも疑わしい。そして僕は、彼女が僕の手紙を不運にも読まなかったから、それで店をやめたのだと信じたかった。そう考えなければあんまり惨めなような気がした。彼女を識ることと、大学にはいることとのどっちかに僕は賭けたのだ。ところがどっちも駄目になってしまった。あの笑わなかった寂しそうな顔。彼女も、どこかの食堂車の給仕になって、窓の外を走って行く田舎の景色でも眺めているのだろうか。  毎日が味けなかった。親父には、来年はどうしても文科に行くと宣言して無理にも承知させてしまったから、この浪人の一年間をいろいろ有意義に勉強しようと計画した。しかし、白線の帽子をかぶって学校へも行かないのは、何という侘びしさだろう。街を歩けば、国民歌謡の「むかしの仲間」が、どのラジオからも流れて来る。    むかしの仲間も遠く去ればまた    日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と    変りなきはかなさよ春になれば    草の雨三月桜四月すかんぽの花    のくれなゐ……  青春というものは忘れっぽい。僕は昔の仲間に会うこともなくなって、早稲田の演劇博物館に通ったり、外語でロシア語を教わったりした。それは七月に中国との事変が始まった年で、僕は数え年の二十歳だった。 [#地付き](清瀬・昭和二十七年九月)     独仏学院の思い出  僕は目下文士業と教師業とを兼ねてやっているが、どうも天性教師業に向いていないことは自分でもよく承知している。教師というのは何よりも学生本位に、我慢強く親切でかつ当方が人格円満でなければならない。ところが僕は第一に癇癪持ちで短気と来ているから、学生が怠けたりまだるっこいとなると、どうも切歯扼腕する。第二に人のことより自分のことの方に夢中で、学生のために難問を解くより先に自分の当面している文学的諸問題を考えることの方が忙しい。第三に人格の点は僕自ら円満なりと信じるが、学生諸君の見るところでは、こんな気むずかしい教師が円満と思える筈がない。どっちにしても落第ものである。  もっとも僕は天職として教師を業としているわけではなく、謂わば身すぎ世すぎ、文士では食えないから職を教壇に求めただけで、学生諸君には大変迷惑だろうと実は済まなく感じている。しかし思い切って辞職すれば、月給の分だけ気の進まぬ原稿も書かなければなるまいし、今みたいに自分の思うままに、選り好みして仕事をするわけには行かないだろう。だから仲々止められない。ただ有難いことに、目下の僕は大学の教師だから、自分の好きな学問の研究をして学生諸君と一緒に考えたり議論したりしていれば、それが即ち教師たる者の勤めと一致するのだから、多少は気楽である。  しかし以前に僕の勤めていた独仏学院の教師と、その次の北海道の或る中学校の教師の時は、学問とは無関係に、学生諸君に如何にして仏語或いは英語の実力をつけるかという点に眼目があったから、語学教師として不適格な僕は何度も冷汗をかいたものだ。  ここではそのうち独仏学院の時の思い出を少しばかり書いてみよう。  僕が大学を出たばかりの時で、昭和十六年の春である。東大仏文科というのは、今では学生の数も多く就職率も大層いいらしいが、僕等の頃は専ら稀少価値を尊ばれるだけで、くちなんかまるでなかった。僕はしかたなしにアンリ・トロワイヤの「蜘蛛」という小説を、今日出海さんのお世話で翻訳している最中だったが、そこにたまたま独仏学院の教師というくちがかかった。きっと鈴木信太郎先生か渡辺一夫先生が憐んですすめて下さったのだろうと思うが、一週一回、教師面をして神田三崎町の独仏学院に通うことになった。  この独仏学院というのは、つまり高等予備校である。当時の高等学校を卒業して、法科の入学試験に失敗した連中に独語と仏語とを教授する。教師の面々も平岡昇さんを始めすこぶる錚々たる顔ぶれ、それに学生諸君はみんなよく出来る。というのは当時の大学の法科入学試験の課目は語学と作文だけで、必ずしも実力相応にはいれるとは限らない。運不運も作用するから、落っこちた連中でも自信満々だ。  さて教室に出てみると、僕より遥か年上とも見える浪人たちがうようよしている。それに教室の雰囲気たるや物々しい限りで、何しろ彼等にとっては、翌年の興廃この勉学にかかっているわけだから、熱心すぎて物騒な目つきをするのも無理はない。そこで僕も大事に大事を取ってヴァレリーの「私は時おりマラルメに語った」という論文を教材に使った。というのは、このヴァレリーの教材は中島健蔵先生の演習で習ったばかりのテクストで、ほんの数ヶ月前までつぶさに読んでいたものだから隈から隈までよく心得ている。しかもマラルメの方は、これまた鈴木先生の演習で三年間汗をかいた代物だから、びくとも恐れることはない。従って僕の独仏学院での講義たるや、すべて中島、鈴木両先生の精華をここに引き延して、首をすげ変えたということになろうか。  そこでおっかなびっくり、まずヴァレリー、マラルメを説明して、黒板にマラルメの難解なソネなどを写し、これを縦横に論じたから学生諸君は眼をぱちぱちさせるばかり、何と口のよく廻る奴だろうと感心した顔つきだが、こちらは|ちゃん《ヽヽヽ》と種を仕入れてある。そこで当方の顫えもやっととまり、学生諸君を煙に巻く目的も達した。大いに催眠術的効果があってあまり質問も受けずに済んだ。  但しこの独仏学院の教師も、僕は僅か三ヶ月位で辞任し、夏ごろ月給七十五円で日伊協会というところに就職した。独仏学院の講師料は幾らだったろうか。ヴァレリーのテクストが終ったらもう種もなく馬脚を現すところだったが、幸いに他にくちが見つかったのでほっとした。  ついでに言えば、この間せっせと励んでいたトロワイヤの翻訳は夏前に終了したが、これがとても検閲を通る見込がないと分ってお倉になってしまった。第二次大戦の始まった年のことだから、これもいたしかたなかった。  少し前のこと、美術評論家として識られている徳大寺君が、僕は君に教わったことがあるよ、と言い出した。徳大寺君と僕とは同じ年頃だからてんで信用しなかったら、ほら神田三崎町の、と説明されて思わず赤面した。とんだところに伏兵がいるものだ。彼は僕が教壇で足をすくませ、偉そうな顔をして受売をしたのを知っているのだ。彼も僕なんかにフランス語を教わったのでは、とても法科の試験にはパスしないと諦めて、その後無試験の文科を受けたのだろうとは思ったが、恥の上塗のようなものだから訊くのは止めにした。 [#地付き](昭和三十四年四月)     厳しい冬  戦争の終った年の九月に、私は疎開先の北海道帯広市に家族を残して、旅に出た。途中信州上田で病いを養ったりしながら、岡山県の山の中に疎開している父に会い、笠岡に伯父を訪ねて暫く滞在し、それから冬の初めに東京に戻って親戚の家に下宿した。その冬の印象は壮烈で、生気が体内に漲っていたような気がする。  私はその年の春、東京が漸く空襲の被害を受け出した頃、急性肋膜炎で大学病院に入院し、まだ本復していないうちに帯広に逃げ出した。従って健康には自信がなく、いつ再発するかもしれない危険を絶えず感じていた。その上私の勤務していた日本放送協会の海外局というのは廃止になり、籍だけは残っていたものの、もう海外向けの放送が再開される見込もなく、従って完全に普通の(というのは、海外放送は特殊な仕事で夕方から夜にかけての勤務だったので、私は明いている時間を自分の好むままに使うことが出来た)サラリーマンになるか、それともいっそそこを止めて、文学で身を立てるかという瀬戸際に立っていた。秋に信州で中村真一郎や加藤周一に会い、我々の雑誌を出したいという希望が次第に熟していたし、私自身も戦争中からひそかに詩や小説を書いていて、文学への夢は、夢だけは、明るくふくらんでいたように思われる。自分自身の勉強、自分自身の作品、それから生活のための(同時に勉強をも兼ねた)翻訳、我々の雑誌、そういった計画の一覧表をつくって、あれもやりたいこれもやりたいと考えていた。  戦争が終ったという実感が、文学というものをひどく身近な、つまり実現可能なもののように見せた。というのは、例えば「近代文学」の創刊号などを見ても、これ位なら驚くことはないとまず安心したし、況や既成の文壇なんかちっとも怖いとは思っていなかった。文壇は天皇制と共に壊滅した、あとは我々が(つまり「近代文学」を含めて、まだ無名の新しい連中が)相携えて今までとはまったく違った、世界的視野に立つ文学を築き上げる筈だと空想した。少くとも私自身は、自分が何を、どのように書くか、それだけが問題であり、書きさえすれば道は自《おのずか》ら開けるだろうと、ごく楽観的な気分でいたようである。  ところで実際に私がそれまでに書いたものは、数篇の詩、二つの未完の(いつ終るともしれない)長篇小説、それだけである。昭和二十一年の一月、私は一週間足らずで六十枚ほどの短篇「塔」を書いたが、それがつまりは私の処女作ということだった。私はその作品に自信があったが、しかしどうすれば原稿が活字になるのか、まるで五里霧中だった。ただ私はこういうものを、つまり旧来の文壇には嘗て存在しなかった種類の小説を、書いたことによって、他人が知ろうと知るまいと私が一個の小説家であることを自ら信じることが出来た。毎晩のように停電する中で、闇市から買って来た芋などを食いながら、私はその小説を書いていた。それが出来てからは、憑かれた者のように連日東京の焼跡を駈けずり廻り、雑文の註文取りや、翻訳の売り込みや、出版社との翻訳書の前借の交渉や、くち探しや、放送局への顔出しや、そういうことで忙殺されていた。何しろ金がなかったし、北海道に残して来た家族をどうするかという問題がいつも重たくかぶさっていた。私自身親戚の家にいつまでもいることは出来ないだろうし、そうかといって何処にも家はなかった。月給は半分に減らされ、物を書くことで収入を得るというほどに物は書けず、借金ばかりがかさんだ。友達と会って景気のいい話をしている間だけ、未来は私の手の上に載っていたが、別れてひとりになると未来は指の間から零れ落ちた。私は一月の末に重いリュックを担いで帯広まで家族の様子を見に行ったが、帰京してからは一層情勢が逼迫した。「塔」を書いたあと、私はもう売れない小説なんか書いている暇はなく、その年の四月の計画というのを見ると、グリーン「幻を追う人」翻訳、ジャルー「リルケの使命」翻訳、ジュール・ロマン「精神の自由」翻訳、「フランス現代心理小説」三十枚「饗宴」のため、「ダンテ地獄」十枚「世代」のため、「永井荷風論」三十枚「近代文学」のため、と並んでいる。笑止なるかな、だいぶ事志と異って来た。しかも計画表の半分も実現しなかった。  私はその頃の日記をぱらぱらとめくってみたが、一月と四月とではもう調子が違う。一月ごろには「五ヶ年計画」などという壮烈なものがあって、気恥ずかしい程勇ましい作品予定が並んでいる。四月になると俄然悲観的である。「一般ニ編輯者ノ威張リタルコトハ文学生活ヘノ自信ヲ喪失セシムルニ足ル。」とか、「実ニ恒産ナキヲ怨ム。金ナリ。金ナリ。」とか、「文学ニヨル生活ハ夢想ニ過ギザルヤ。爾ルガ如シ。」とかいったものである。「悪の華」の原書を売って、その金で原稿用紙を二冊買ったなどという記事を見ると、我ながらやるせない。そして四月の末に、私は放送局をくびになり、あらゆる試みにも失敗して、北海道へ逃げ帰ってそこで中学の英語教師になった。そして暫く勤めてから結核が再発した。  私が最も意気軒昂としていたのは、従って昭和二十一年の正月頃であろう。風邪気味でいつも寒さに顫えていたし、親戚の家で小さくなって薄いスイトンを啜っていたが、生活に対する真の苦しみも知らず、夢のように文学に憧れ、文学生活というものの可能性を信じ、自分の能力に対してもむやみと自信があった。戦争が終ってから、自由が大安売りされたような錯覚に、私も亦捉えられていたのであろう。私はそれから生活というものを知り、自分の内部に降り、そして文学の本質をほんの少しずつ理解して行ったような気がするが、しかしそれはもっとずっと後のことであり、その冬の私が、無邪気で、向う見ずで、生意気であったとしても、私はやはりそこから出発したのである。 [#地付き](昭和三十九年十二月)  [#改ページ] [#小見出し]  清瀬村にて    文学と生と  最初に私事に亙ることを許して下さい。僕はここ二年程病床にあって、その間殆ど何の仕事も出来ないような状態で呻吟していました。二回の手術のため、そのうちの十ヶ月ばかりは書物さえ思うように読むことが出来ず、仰向に寝たまま苦しい思考に耽っていました。もともとこうした病気になったのは、戦争中から戦後にかけて身体を無理しすぎたせいなのですが、生と死との間に立っているという自覚は、戦争がまだまだ続いているような錯覚を僕に与えていました。実を言うと、戦争というものが簡単に平和と置き換えられるものでないことは、現在僕等の誰もがよく分っていることです。しかしそうした見方をしなくても戦争が大きな一つの悪であることを思えば、他の種類の悪である病気や貧困や無智などの中に戦争が尚も継続しているような印象を受け取ることは極めて自然でなければなりません。敗戦国の戦後が戦争中に劣らず苦しいのは当然のことです。  しかしここでも尚私事に亙りますが、僕が今に至る迄心の中に戦争を感じていたというのは、結局死が明かに目前に控えているため、戦争中と同じように死の問題以外のことが僕に考えられなかったからです。死に憑かれるということは、勿論誰にでも一時は経験のあることなので、一種の神経衰弱的症状だと言えばそれでお終いなのですが、しかし当事者にとってこれ程の重大問題はありません。僕も毎日厭な気持に涵って、何とか死の観念を逃れようとして取りとめもなく文学上の諸問題を考えていました。  僕が病床で考えたことは随分多方面に亙っていますので、ここに簡単に書き誌すことは出来ません。日本に於ける詩の貧困ということ、そして日本詩に寄せる絶望的な反省が、肉体の死の予感と結びついてしまうために、僕は主として二十世紀に於ける小説の未来という方向に自分の思考を持って行ったのですが、しかし小説の運命が到底十九世紀に於けるような輝かしい希望を孕んでいると言えないことは、これはもう自明です。僕はジイド、サルトル、モーリアクなどのフランス作家、ヘミングウエイ、フォークナーなどのアメリカ作家の、種々の作品に対する貧しい読書の記憶を頼りに、両者の総合を思い、日本文学との聯関性を考え、小説がどういう方向に進んで行くものであろうかと心細く摸索していました。僕が考えたことの内容はいずれ別に書きたいと思いますが、フランス的な小説方法とアメリカ的な小説方法というものを大雑把に考え、その間に総合として、魂の現実を通して、社会の現実を描くような方法——謂わば永遠と時間と、内と外と、個人と全体とを象徴的なリアリズムで描くという方法を、空想的に計画してみても、それは果して日本文学の現実にまともに取上げられるかどうかという点になると心細い限りです。そして何よりも作品のないところに議論は成り立たないものですし、作品を度外視して論理の空廻りを見せるような批評には飽き飽きしていましたから、結局小説の未来という問題も、僕がいつになったら、僕の中にある批評家が満足出来るような作品を書き得るかということに煎じ詰められます。こうなると絶望はますます大きくなって来るわけです。  一体小説の書けない小説家なんてものは、言葉の綾の面白さはあるかもしれませんが、これは詩の書けない詩人以上に惨めなものではないでしょうか。詩人というのは謂わば魂の問題ですから、たとえ詩の書けない時期があっても詩人としての自覚に揺ぎの来ることはないでしょう。またちょっとの間書けないからといってぐらぐらするようではまるで詩人の資格がありません。しかし小説家は、これはメチエの問題です。或る程度|書く《ヽヽ》という行為によってこのメチエを身につけなければなりませんし、少くとも|見る《ヽヽ》という行為によって日々に自分を磨いて行かなければなりません。ところが僕は、病気というやむを得ない故障によって厭応なしにベッドに寝かされていたわけです。  小説家というメチエにとって、彼の初期に書いて書いて書きまくることは、平凡なようで大事なことだと聞いています。小説というものは漠然と考えていたからといって、十年経っても書けるものではないでしょう。ところが僕はそのごく大事な初めの時に、二、三の習作を発表しただけでどうにも書けなくなってしまったのですから、ひどく気ばかり焦りました。それも、それまでに割合によく本を読んで理論的には小説というものが大体分っているつもりでいたのですから、頭ばかりが働いて手が動かないというのには堪《こた》えました。勿論最初は、書けないといっても病気のせいなので何もスランプなんていうのじゃないからと考え、それで気を紛らしていたのですが、こういう言訣は成り立ちません。書けないというのと同じことです。一行書けば一行だけうまくなり、十行書けば十行だけうまくなるような気がしている時に、まるきり書けないでいるのは惨めなものです。それも理論的に小説の観念について考え、小説の技巧とか方法とかを空想していると、一層惨めな気がして来るのです。何だかこのまま駄目になってしまうのではないかと考え出します。(勿論肉体の方が駄目になればこれはもう万事休すなんですから、恐怖は常に重なっているわけです。)最近少しく元気になり、いざ本当に書こうという段になってやはり気後れしているのは、病気が重かった時に考えていた方法とか、構想とか、デテールとか、そんなものが皆単に妄想にすぎなかったような気がしているためなのです。結局小説家にとって、|書く《ヽヽ》ことによって考えたこと以外は、大して意味がないのでしょう。何と言っても書かなければ、考えていただけでは、それは小説家にとって本当に身についたものではないでしょう。僕はこうしてひどく空疎な気持で日を過していたのです。  そこで|書く《ヽヽ》という行為が不可能になれば、後は|見る《ヽヽ》という行為があるだけですが、ベッドに寝たきりの病者にとって何を見ることが出来るでしょうか。結局その対象は自己しかなく、それも肉体と共に精神までも蝕まれた、死に憑かれた自己なのです。人は死の雰囲気に包まれている時に限りなく生を思うものですが、僕も生を、——この瞬間に於ける生と、死に至る迄の持続としての生とを、如何にして強く結びつけることが出来るかについて頭を悩ましていました。その場合、僕が何によってこの生を支えているかと自問することは極めて自然でありましょう。この生を支えているのは何であるか。文学《ヽヽ》という答が、その時ただ一つ与えられました。  しかし果して文学によってこの生を支えることが出来るでありましょうか。文学とは何か人生とは何かという素朴な疑問が、日夜僕を苦しめました。僕の愛誦するボードレールの散文詩に「人は皆シメールを」というのがあります。灰色の空の下で、詩人は背中を曲げて歩く幾人もの行人に出会うのですが、彼等は首にシメールという怪獣をぶら下げ、少しも不服の色を見せず、当もなく歩いて行くのです。シメールという言葉は、幻想、妄想、夢想などと言った二重の意味を持っていますが、ここでも文学《ヽヽ》は単に僕にとってのシメールではないかと考えるのは恐ろしいことでした。  天賦の芸術的才能を持った人間が、運命のために悲劇的に追いつめられて行くというテーマは、十九世紀のフランス浪漫派以来広く人口に膾炙しています。謂わゆる「詛われた詩人」は、火の気のない屋根裏部屋で凍りついたインキを溶かしながら、容易に世人の理解を喚びそうにもない作品を霊感の赴くままに書き続けて行きます。このような詩人たちにとっては、正に文学とは彼等の人生を支えるものでありましょう。しかしこのような芸術家を他の人々から孤立した存在であるという見方は、大衆にとってのみならず芸術にとっても危険なものであって、常にすぐれた芸術は、結果的には人生に有用な、役に立つものでなければなりません。どのような詛われた詩人の詛われた作品であっても、それが芸術的にすぐれている限りは必ずや読者の人生に対して何等かの意味を持つ筈です。  この点から、文学が僕にとって支えになるためには、それがまた他人にとっても支えになり得るようなものでなければならないと考えられます。ひとり僕の苦しい生に堪えて行くためにのみ文学があるのではなく、逆に僕の文学があるために人々が人生について何等かの慰めと助言とを得たというふうにありたいと思います。小説家の社会的任務というものは、恐らく人々が無意識的に生きている各人の生に対し、一つの意識的な生を提供することにあるのでしょう。それは読者に対して美しい夢を与えるだけでなく、苦い反省をも与えずにはおかない筈です。従って自然主義的なリアリズムは人生の一つの場合を提供するにとどまりますが、魂のリアリズムは、その象徴的人生の暗示によって、広く生一般に通じることが出来るのではないかと思われます。  しかし僕がそのような文学を望んだからといって、やはり何も書けないでいる状態の中では救いようはありません。そうすると僕の生を文学によって支えるということは、僕の文学が他者のためにある文学であるように、僕の生も亦、他者に通じるもの、人々が無意識に持つ生の観念を、ぎりぎりに意識的に見ることによって生一般に通じるものであることに帰着するのではないでしょうか。人生とは僕にとって危機《クライシス》の連続であるように思われます。しかし多くの人は、自分の危機を危機と感ぜずに、それこそいつのまにか、やり過してしまうのではないでしょうか。小説家は自己の危機を常に明かに|見て《ヽヽ》いなければなりません。(それは人生的に成功するとか失敗するとかいうこととは別問題です。)恰も長篇小説の隅々にまで眼をくばり眼に見えない効果をまで小説家は計算するように、彼は実人生に於ても自己の危機に眼をつぶるようなことがあってはいけないと思います。このことは苦しい病床にあって死を目前に見ている場合には非常に難しいことでした。  こういうふうに考えて来ると、小説家の生は文学によって支えられていると言えると共に、逆に文学が彼の生によって支えられているとも言えるでしょう。要するに人間が文学を決定するという簡単なことです。しかし小説家の夢みている文学が、危機に当って一つの支えになり得るだけの強い自覚でなかったならば、その文学は生にとってのシメールであるに過ぎず、その生も亦文学にとってのシメールで、真に生き抜かれた生であると言うことは出来なくなるでしょう。文学とは決して素人の閑文字でも遊戯でもなく、一つの社会的責任を持つものであり、作家は常にこの責任を見詰めて仕事をしなければならないと思います。それは彼が実人生に於て、サルトルの所謂 homme total であることと結局同じことになるのでしょう。生がはっきり文学とは別物であることを認めた点から、文学は彼の生を動かすためのガリレオの支点となる筈です。よりよく生きるということは——文学的に生きること、生の中に文学を混えるということではありません。文学とは畢竟、自覚であり態度であると思います。これが病気という危機の中にあって僕を支えていた最後の砦でした。そして精神的な死を孕んだ危機というものが、人生に於て絶えず繰返して人間をおびやかすものである以上、僕は病中のこの苦しい反省を喪いたくはないと思っています。 [#地付き](昭和二十四年六月)     小山わか子さんの歌  僕は小山わか子さんについて何等識るところがない。僕はただ小山さんの死後に編まれた薄い歌集によって、その精神の流れを遥かに望んだばかりである。そして僕がこの人の生き方をかなり自由な想像を以て追体験することが出来るとしても、真実に営まれた生というものは最早遠く、小山さんの生を識る人の記憶からも既に日々に遠いであろう。その生は最早ここにはない。僕のように無縁な者がこのような文章を書くことさえも既に不思議である。一つの生がまったく終ってしまい、ただ故人を識る人々の記憶の中にのみその生が延長していると考えることは、恐らく人間のはかない諦念のなせる業であろう。しかしこのような記憶、死者の追憶によって埋められた記憶なくしては、僕達は生のもつ真の悦びに想到し得ないのである。死者が生者に対して意義を持つのは、生者の意識の内部に於て、彼の純粋の生を常に死の記憶によって新しくするように死者が作用している点にある。死者は死と共に死なず、彼を識る生者の死と共に死ぬと言えるだろう。死者に対する最もよい冥福は彼等の生の記憶を常に美しく保存すること、時と共により一層美しく保存することにある。忘却が死者の最大の敵ではないだろうか。  結核療養所の中に生活する病人にとって、死は常に最も不幸な関心事である。自らの死と共に他者の死というものが異常に生々しく僕等を取り巻いている。僕等はしばしば自らの死の予想に苦しみ、その不安に耐え切れないために他者の死に対して真に悲しむことをなし得ないのではないか。死は厳粛な事実である。しかし療養所の中に於ては僕等はあまりにこの事実に馴れすぎている。死が日常に在ることによって僕達は他者の死を厳粛に考えるに堪えない。自らの問題の不安には眼をつぶり得ない故に他者の問題に不安を見ようとしない。或る者は冷淡であり非情である。或る者はひと通りの同情をしか注がぬ。寧ろ一片の同情より無関心の方がまだましなのではないか。そして次に来るものは速かな忘却である。そして僕等はただ自己の孤独の内部に在り、自己の不安にのみ直面している。しかし真の生はこのような、謂わば臆病な、自己保存的な、態度の中には無いだろう。他者をも自己のうちに持つことは自己を稀薄ならしめることではない。悲しみを多く感じる機会があることによって、療養所に於ける僕等の生活は真のパトスに常に洗われているのではないか。  僕がこのようなことを言うのは、僕が小山わか子さんの死を深く悲しんだ故である。前に書いたように僕はこの人と何のつながりもない。同じ療養所に生活していたのであったが僕は小山さんの顔さえも見たことはない。如何なる生涯であったか、如何に苦しみ如何に耐えたか、僕はそれを殆ど何も識らぬ。袖珍版二十四頁のガリ版刷の小冊子に、僕はただ小山さんの生活を記録した僅かばかりの歌を読んだのに過ぎぬ。しかしこれらの歌を通して、孤独な終焉に至るまでのその病床の生活が僕に生々しく会得された。このような生き方に感動した。小山さんの死を悲しむということはその送った生が類のなく美しいものであったことに起因している。病者の生は、一般に言って、ただその精神生活をのみ純粋に生きるから、またそこに多くの苦しみと不安とがあるから、かえって生の普遍的な姿を簡明に示している。しかしその中でも、小山わか子さんの生き方は美しい。僕等にとって死を悲しむ心は畢竟生を惜しむ心である。  小山わか子さんの遺歌集は昭和二十一年五月の療養所入所から二十三年十一月十五日の永眠に至る迄の僅かに八十幾首の歌を収めている。従ってまた僕のように故人を直接に識らない者にとっては、これが故人の生涯を偲ぶ唯一の材料である。この僅かばかりの歌、しかもこの中に僕等は正確な一個の人間記録を読むことが出来る。これは芸術によって一層真実にされた現実である。この中に現実は本然の姿のままに浄化され一の感動にまで亢まっている。  小山さんの生活は悲痛であり従ってまた歌に取り上げられた材料は悲痛である。病いは重く喉頭をまで冒されている。死はあらあらしく目前に控えている。またその生活は孤独である。父母肉親は戦災によって亡くなられた。このような環境に在り、ただ病床に沈黙し観照し苦悩することの他に何ごとをもなし得ないような身でありながら、僕等がこの歌集に読むものは決して自己に甘えた感傷ではない、他人に甘えた虚飾ではない。歌という表現を通して、ここには見せかけの悲痛さを認め得ない。これはぎりぎりの、無二の、真実の、表現であって、自己を自己以上に見せるものもまた自己以下に見せるものもない。  空襲により父母を喪われた。この事実が多感な女性に一刻も忘れ得ぬ悲しい記憶となったのは当然である。小山さんの歌に父母を想う多くの切々たる歌のあるのは怪しむに足りない。しかしこのような謂わば感傷的な作品の中に小山さんの歌の真骨頂があるのではない。僕をして言わせれば、他者の死を通して(肉親もまた遂には他者であるから)自らの死を想い、自らの死の予想の前に自らを潔《きよ》くして生きることの苦しさに耐えた、実にその点に小山さんの歌の比類のない厳しさがある。他者の死には一種浪漫的な美しさがあっても、自らの死は揺がすことの出来ぬ運命であり直視すべき不安である。しかもこれを直視することの苦しさは、病者の必ず知るものではないだろうか。  小山わか子さんの病床歌には最早何等の感傷はない。生きることの努力がそのまま凝って幾首かの歌に迸《ほとばし》り出たような気がする。他者の死に於ける謂わば率直な甘さから自己の死に於けるこのような厳しさに至った契機は、人間としての小山さんの生活の根強さと共に、生活に作用した芸術というものの確乎たる力の裡にあるのではないか。   一ことはわが生命をけづるものなれば   「面会謝絶」と戸にはりつけぬ   生きようと今日もつとめぬ箸をおき   呼吸ととのへて又箸をもちぬ  病床にあって人はしばしば幻像の中に自己を置くことにより苦悩を逃れようとする。感傷もまた一の幻像であろう。しかし幻像に憑かれた生活の中に真の現実は無い。小山さんの歌を通読して僕の感じるものは、小山さんが如何によく物を「見て」いたかということである。例えばこれら僅か八十幾首の歌の中に「空を見る」という歌が五首もある。また次のような鋭さ。   偽りをほんたうらしく云ふ人の   まなこの動きしばし見つめぬ  このような「見る」態度を、小山さんは自分自らに対しても容赦しなかった。病む「苦しさ」を、不安を、孤独を、ほんの少しばかりの「倖せ」を、また悲しい「性《さが》」を、小山さんは見た。見、そして歌った。そして歌うということは思うままを書きつけるということではない。表現は、自己をよりよく見ることであり、小山さんの場合、表現することの中に生きることの一の大事な核が存在したと言えるのではないだろうか。  小山さんの歌歴は日の浅いものであったように思われる。この薄い歌集は、しかし、その間に於ける極めて迅速な進歩を物語っている。恐らく小山さんは自ら芸術家を意識したことはなかっただろう。恐らくは「他にすることがないから」歌をよまれたのであろう。ただ小山さんは、真剣に、自分の生きることの証拠として、また生きることの証明として、歌をよまれた。生きることの中に歌が自然にはいって来た。そこのところが僕などにひどく有難いものに思われる。芸術は考えれば無限に難しいものだが、しかし芸術はこのように、ごく簡単に人を救うこともある。僅か八十幾首に代表される歌によって、死に至る三年間の療養所生活が「救われた」というのは僕の言い過ぎであるかもしれぬ。しかし他の如何なるものが、小山さんにこれほどの力を、苦しみに堪え運命に堪えて生活を直視するだけの力を、与え得ただろうか。素朴なる芸術の力ではないだろうか。  小山さんは後に洗礼を受けられたということである。神を信じることは大いなる慰めを小山さんに与えただろう。僕は神を信じられた小山さんを羨しく思う。しかしもし信仰によって小山さんの魂が救われたとしても、現実の日々の苦しみの中に生きることの責任を暁《さと》り得たことには、歌という表現の持つ力が作用しているのではないか。少くとも歌という表現を通して形而下の生活をぎりぎりまで見詰め、そこから形而上への道が展けて行ったのではないだろうか。そのような小山さんと歌との一致、人間と芸術との一致を、僕はやはりひどく羨しく思う。僕は短歌や俳句の将来に関してあまり楽観的な予想を持っていないが、それらの中にある伝統的な民衆性によって、日常裡に芸術を生活の中に滲透させ得るということはやはり短歌俳句のもつすぐれた利点ではないかと考えている。もしそれが趣味的なものを脱して真に人間の生きる手段とさえなれば、芸術にジャンルの甲乙を論じることはないだろう。しかしながら芸術を生活の中に持つことは畢竟至難の業である。  小山わか子さんは自分の杯《さかずき》で飲まれた。「どんなに小さくても私は私の杯で飲みます。」恐らくそこに芸術の最後の秘密があろう。僕は小山さんの歌を通してその生活を想い、恐らくその歌と生活との間に間然するもののなかったことを信じている。まことに小山さんはよく生きた人であり、よく歌った人である。僕は小山さんの知己朋友が常に渝らない純美な記憶を持たれるように望む。また多くの、僕のように故人に無縁であった人々が、これらの歌を通して、また故人の死を通して、生きることの厳しさに想いを致されることを望む。よく生きられた生涯は、たとえ短いものであっても、人々の追憶の中に再びその生涯を生きるだろうから。 [#地付き](昭和二十四年三月)     白い手帳  むかし、真新しい、まだ一字をも染めてないノオトブックに対する偏愛があった。金のかかった贅沢なものである必要は毛頭ない。ごく普通の、何なら小学生むきの雑記帳でも我慢は出来るが、或る程度は紙質や罫の太さや綴じなどに自分なりの好みがある。そういう手のつけてないノオトブックが、実は今でも身の廻りに一、二冊、大事そうに置いてある。  僕はそして、純白の頁を見詰めながら、夢を見ることが好きだ。この手帳には花についての観察をしるしてみよう。眼に触れる花々を四季さまざまに、その色、かたち、匂い、好み、聯想などについて詳しく書く。ノオトの頁が次第に埋められて行くにつれて、花々の——それも僕の見た花々の姿が、正確にそこに集録されるだろう。……それからまた気が変る。そうだ、夢というのは不思議なものだ。毎晩のように異った、空想では及びもつかぬ、夢のきれぎれ、見たはじから平気で忘れて行くが、もしいちいち書きとめておけばどんなにか面白いだろう。日附のついた短い筋書、素早く暗転また暗転する奇怪な舞台、思ってもみなかった印象の出没、記憶の失われた暗幕の彼方に意外なほど鮮やかに射込まれる矢。……それからまた気が変る。  いつごろからそうした習癖が始まったものか、僕はよく記憶していない。しかし高等学校の学生だった時分には、もう何も書いてないノオトブックを、——講義のノオトや日記(持前の気紛れにいつも数ヶ月しか続かず、しょっちゅうブランクな箇所のある)や、読書ノオトなどと並んで、何冊もの白いノオトを大事にした。それも、いざ書きかけると暫くできっと気がさす、そうなると書いただけの数頁を破かないと気がすまないし、そのあげく、かたわになった手帳が見るのも厭になって捨てられてしまう。そういうことを何度も繰返した。  僕はいま、また一冊の新しい手帳を開いて、多少は惜しそうにその純白の頁をひらひらと捲ってみてから、詩や精神などについて短い感想の幾つかを書き取ってみようと思う。たとえ昔のように途中で厭になることがあっても、一気に破りすてるほどの潔癖さを今の僕はもう持っていないに違いない。      純白  それにしても、純白なものを愛するというこの感情は何だろう。一点の雲を浮べぬ穹窿、一個の足跡を印しない砂浜、そして一行の文字をしるさないノオト。そこには精神が無限に描く空想がある。人は空想に於て決して失敗することはないから、この純白の中に可能性の渇きは常に、医されることなく潜んでいる。しかし何等かの感想を書き終えた後には、人は最早それを変えることはできぬ。それは定着されたもの、実現されたもの——精神がひと度はそこに終結したことを意味するものだ。人が真摯である限り、それを乗り越えて進むほかに道はない。逡巡し、後戻りする怯懦は許されない。そして精神の昏迷した行詰り、或いはアポリア、を越えて前進するためには真の勇気が必要であるから、人はしばしばそのような勇気に自己を賭ける前の静けさ、即ち純白なノオトを愛するのだろう。その静けさの内部では精神は未だにまどろんでいるが、しかし目覚めた暁には大空に向けてすくすくと育つための樹液も、またこの芽生えの中に宿されている。一冊の真新しいノオトブックは常に異邦からの薫りであり、そこに最初の一字をしるすことは未知の海への出発、精神の冒険である。冒険のないところ、ノオトは死せる紙にすぎない。      経験  詩は感情ではなく経験であるとリルケは言った。このリルケらしい言葉を初めて読んだ頃(僕は当時学生で、詩作に熱中していた)、僕を詩に駆り立てているものがその時々の感情の総和である自己の精神世界、青春の意識にみちみちた自我であることを信じていた。これもまた経験であると思っていた。  それは恐らく間違いではなかっただろう。しかし経験というものの持つ真に恐ろしい半面を理解するには更に長い歳月、というより歳月が精神に作用して精神を決定する転機が、必要なのだ。それは言うならば、自己の経験を一層高いところから見詰めて、生の全視野のうちに個々の経験の価値を見出すこと——精神の明晢な凝視の下に経験を再び経験することである。  人は生きる限り常に経験する。「生」のノオトブックは純白であることはない。そして経験の持つ意味が正しく理解されることによって、どのように単調無為な生もその内容を一気に豊富にする。それはしばしば新しい意味さえも持つ。ロマン・ロランの「内面の旅路」に於て、彼の生涯は自ら新しく選び直されている。  しかしそれは最初の経験を、——無垢の感受性、微風にそよぐ感覚によって無条件に、全的に、受け入れられた青春の最初の経験を、決して軽く見るということではない。経験は常に一度限りである。強烈な印象の下に、それは常に|最初のもの《ヽヽヽヽヽ》であり、人を詩に駆り立てる力を持つ。その時詩は、経験のもつ最初の感動を(従ってリルケの言う「感情」を)なまなましく表現しているが、しかし多くは、経験の内部にある認識の深淵を覗き見ないでいる。詩作の真の苦しみは此所から始まる。      詩人  人は誰でも詩的情緒を感じることが出来る。風景が今迄に一度も見たことのないような強烈な印象をもって人に迫る時、人はその風景が彼に与える全的な意義を諒承し、そこに無限に感動する。その時、自然は彼と合体し、彼という一つの世界、内的世界は、彼を取り巻く外的世界に自己を放射することによって逆に外的世界を内部に包蔵する。  詩的情緒は、しかし自然に対してのみ起るのではない。人と人との間にあって、そして更に社会のさまざまの構造の中にあって、内的世界が外界の刺戟に目覚め一種の自我の変革を印象づけられる時に、感動は自然に対する時よりも一層なまなましく発生する。そして人間のすべての感情を、そのようにして詩的なものに還元することが出来る故に、人はしばしば、自らを詩人であるように錯覚する。遥かな風景の前にただ一人相対している時に、美しい恋人と別れを惜しんでいる時に、社会の不義不正に対する憤りのため胸の引き裂かれるのを覚える時に、——そのような時に、人は詩人として自らを自覚する。  しかし、詩的情緒を覚えることと詩人であることとは、もとより同一事ではない。  詩的情緒が最も純粋であり、謂わば外的世界の量的な感動が、質的に自己の内部を充足するのを覚えるのは、人間の記憶に於ける最も遠い日々の感動であろう。僕はしばしば思い起すが、幼年期から少年期にかけて未だ社会的な視野を開く窓を持たず、悲しみは悲しみとして、悦びは悦びとして、ただ自己の純粋な認識に感情があずかっていた日々に於て、詩的情緒はどれほど僕の成長を促したことだろうか。自然に対する驚きは、そのような少年の場合には、スエーデンボルグ的神秘感を以て宇宙と自我との合体を意識させる。少年の内部に感動のひたむきさを妨げる何等の不純物も持ってはいない故に、瞳は常に高貴な輝きに充たされている。生活がそのまま詩的なものを呼吸している場合は、恐らく幼年期をのぞいては存在しないだろう。  しかしそのような深い感動、生きることへの日々の成長を孕んだ詩的生命の自覚、心の内部に射す光は、惜しいかな表現の力を持たない。それは寧ろ表現を持たない故に、一層輝かしく一層美しいということも出来よう。このような幼少年期の異常な才能の閃きは、例えば絵画の場合には、色彩或いは線というようなマチエールの簡単さ(と、一見思われるもの)によってしばしば可能なこともあるが、文学の場合には、文学というマチエールの操作が絶対に精神の働きを要求するために、このことは殆どまったく不可能である。そして最も簡単に見える、子供っぽい、素朴な抒情詩といえども、それを書き得るのは子供でなく表現力を持った大人であることに(子供の頃の感受性が尚失われていない場合に限って)詩作の一つの秘密が隠されているのである。詩人とは内部世界に於て詩的情緒を感じる感受性の量によって決定されるのではなく、外的世界との接触によって豊饒ならしめられた内的世界が思想と経験との潮に常に洗われながら、完全な自己表現の能力を備えた場合に初めてその名の光栄に値する。詩人は決して一時的な感動の契機によっては誕生しない。持続する精神の緊張が彼を社会と文明とに対する批評家として、言語の機微に参画する修辞家として、また何よりも心象の純白を失わない人間として成長せしめた暁に、初めて詩人は誕生する。詩人であることは、内的に劇的な生き抜くための強靱な意志を必要とし、同時に幼年期の神秘的宇宙感とナイーヴな人間肯定とを所有しなければならない。  詩人であることは従って至難である。詩人がミューズ達の寵児であった時代は遠く去った。 [#地付き](昭和二十五年七月、九月)     散文詩二題      母と子  空中で幼い子は風の中の鳥のように笑った。この子は軽業師のように身が軽い、と母親は思う。可愛い赤ん坊、しょっちゅう口をむずむずさせて、bbbb・・・・と言う。御機嫌のよい時にだけ母親をママ、ママと呼ぶ。今が一番御機嫌のよい時なのだろう。裸の身体がゆるやかに右に左に揺れる。  若い母親はベッドの上に寝て、両手で赤ん坊の身体を空中に支えている。小さな腕の根もとを親指でちょっと抑え、すべすべした背中の皮膚をカステラを持つようにそっと抱きしめている。幼い子はこそばゆいように笑う。しかし母親の方もこそばゆい。暖かい血が、早い心臓の鼓動に乗って、腕を伝わって一滴一滴と落ちて来る。  窓からは新秋の風が涼しい。陽射《ひざし》が壁と床とに眩しく当っている。真直ぐに吹き込む風と、壁に当って廻り込んで来た風とが、若い母親の裸の胸もとを、腹を、曲げた両脚を、塑像のように形づくって、含羞の感触を送る。  良人は遠くにいる。良人はいま遠くを旅行している。それが女に快い解放の自覚を喚び起す。彼女は良人を愛している。が、こうやって気儘に、赤ん坊と二人きりで、無心に遊ぶためには、良人の存在が意識の中から拭い去られるほど遠く離れていなければならない。不在の感覚は距離に正比例する。もし良人がちょっとでも知ったなら、裸で寝ている自分をはしたないと言って怒るでしょう。小さな秘密を知っているのは赤ん坊ばかり、赤ん坊は、ママ、ママと声にならない声で呼びながら、魚のように身をくねらせている。  水の中を小さな魚が群をなしてくねくねと泳いで行く。鱗が銀色にぴかりと光る。女は小さい時浜辺で育った。風はいつも塩からい。砂浜に寝転ぶと皮膚が塩を吹く。太陽も美しい。雲も美しい。しかし海へ出て、お魚と遊ぶ時の方が一層面白い。錨のように水の中に沈んでみると、海が身体中を締めつける。海藻が長い手で招いている。貝殻がこくりこくり居眠りをしている。章魚《たこ》はすぐに怒るからあまり側へ寄ると怖い。お魚どうしが追い掛けっこをしている。耳が鳴って海のキスは身体中に痛い。諦めて水の上へ出ると、ひとりぼっちだ。太陽が眩しいように明るい。笑っている。  赤ん坊が笑っている。支えている腕が少しずつ重くなる。小さな手を空中に振って、泳いでいる、飛んでいる。そういうふうにわたしも泳いだ、そういうふうにわたしも飛んだ。赤ん坊の身体が光を遮って、部屋の緑色の壁紙が揺れている。壁紙の草や葉や花がぐるぐる廻り出す。蒼ざめた光線が水の中に明暗のだんだら縞をつくる。お魚がいびつに歪む。盲の海草が明るみを慕って長い手を摸索させる。ぶく、ぶく、ぶく、と白い泡が自分の口から飛んで逃げる。のんきなお魚がぶつかりそうになってきょとんとした顔をする。それから慌てて逃げ出す。おバカさん。彼女は笑う。そうするとまた息が苦しくなる。  腕が疲れた。ベッドのスプリングが軋る。赤ん坊は胸の上に着陸する。小さな手で母親の頬や口許を叩いている。時間はそうして過ぎた。世界の中で赤ん坊たちが無心に笑っている間に、ひと気のない砂浜で松の花粉が降りこぼれている間に、蚕の吐く繭のように巻雲が蒼空で幾度も死んで行った間に、時間は音もなく過ぎた。もう昔にかえることは出来ないだろう、もうお魚と一緒に遊ぶことは出来ないだろう。赤ん坊が笑っている。若い母親も笑う。昔は一日一日が愉しかったと思う。まるで今の一日が何だか為合《しあわ》せではないかのように。赤ん坊はいつのまにか眠ってしまった。母親は記憶の中に眠りかける。新秋の風が、裸の肩に、裸の胸に、裸の両脚に、涼しい。赤ん坊のより添っている脇腹だけが奇妙に暖かい。時間がすべてを変えてしまった、と女は思う。まるでそう思うことで、時間の眼に見えぬ刃《やいば》が自分の内部に運命の傷痕を刻み込んでしまったかのように。そして女はひとり、幸福そうに笑う。  無心に眠る子と、無心に笑う母親と、何れが更に幸福であるか。或いはこの瞬間に、——遠い旅路を行くレールの上に揺られながら、彼女の良人がしきりに妻への思慕に駆られつつあるこの瞬間に、——一つのシグナルの明滅が、一つのダイヤルの変更が、一人の転轍手の不注意が、最愛の良人の身にどのような不幸な椿事を喚んでいるかもしれないものを。      果物の味  わたくしの一人の友人が、一緒に食事をしたあとで、しみじみと珍しそうに林檎の味を味わっていた。青年期まで北海道で育ったことを知っているので、わたくしはその林檎に何か変った点でもあるのかと訊いてみた。 「子供の頃の癖が抜けないのさ、」と彼は答えた。 「どうして? 君の郷里の方では林檎なんて食いあきるほど採れるのじゃないのか。」 「いいや、北海道といっても広いからね。僕の方では寒すぎて果樹は何も育たない。果物屋なんてものは町に一軒もない。子供の時分には、身欠鰊《みがきにしん》や南瓜の煮たのがお八つだった。それが当り前だと思っていた。ごくたまに林檎や梨をもらうことがあると、その薄い一切をいつまでも惜しんだものだ。」  どのような山間の子供達でも、山葡萄や野いちごや桑の実の味は知っていよう。日常に果物の魅力を与えられずに過ぎた少年時代というものが、わたくしには何か不思議なような気がした。人生を美しく感じさせる爽かな感覚の一つが、彼に欠けているのではないかと不愍がった。  また別の或る友人は、仄かに香りながら甘い滴のしたたり落ちる白桃にかぶりつき、しきりに故郷を恋しがった。「僕の田舎ではもっとずっとうまいのだ、」と彼は言った。「この味の中には故郷がある。子供の頃の風物が眼の前に浮んで来るようだ。」この友人は瀬戸内海に面した暖かい地方に生れていた。  わたくしには、その味によって故郷を思い起すような果物もない。また生れた土地を離れて長く放浪している身には、思い起すことの出来る故郷もない。しかし冬の寒い夜に、かじかんだ手にナイフを持って、器用に、細長く、林檎の皮を剥いているような時に、わたくしはわたくしの幼かった頃を思い浮べる。林檎の実の紅いようにわたくしの頬も紅かったし、その清純な味わいのようにわたくしも清純であったに違いない。そしてまだナイフを操ることも出来ないで、幼い白い歯ですべすべした皮膚の上に小さな歯型をつけていた頃の粗末な林檎の方が、果物皿の上に美しく並べられたインド林檎やゴールデン・デリシャスよりも一層美味であったのは何故であろう。  わたくしというものが変らないのに、人智の妙を尽して栽培した果物の味わいがあまりに繊細に過ぎたのであろうか。それとも果物の味は変らないのに、このわたくしが変ってしまったとでもいうのであろうか。 [#地付き](昭和二十六年八月)     病者の心  思い出せば、僕が初めて療養所へはいった時に、僕は成形手術を含めて、半年の後には元気になって退所できるつもりでいた。夢というものは誰にとっても楽天的なもので、事をいいような面だけで考えたがる。そんなに簡単にはいかないよ、と人が言う。が、自分は違うのだ、僕の場合にはそれが可能なのだ、と。しかし自分もまた同じ苦しみの軌跡を歩まなければならないこと、幸運な例外とは、自分の場合ではなかったことが、次第に分ってくる。半年が一年になり、一年が三年になり、幾度も危機を繰返し、痛いほどに孤独を意識して、人は遂にこのしたたかな強敵と、それに立ち向っている非力な自己とを見る。人は|見る《ヽヽ》ためにどれほどの無駄な時間を過さねばならないことか。そして遂に見得た時に、彼の眼に映るものは、暗い深淵としての自己の内部である。死はその時、彼を捉えている。  死は必ずしも肉体の死のみを意味しない。精神の死、——それは恐るべき効果を、徐々に、確実に、病者の上に働きかける。喀痰検査のガフキー番号、血沈速度の不定、レントゲン写真のまぎらわしい影、微熱、……そのようなものを通して、また、経済的な焦慮、愛する者の離反、未来への苦しい願望、……そのようなものを通して。心が絶望に塗りつぶされ、嘗て生きたように自分はもう二度と生きられないだろうと考える時に、忽然と、死は彼の胎内にある。もし肉体の衰弱と同時に、このような死が病者を捉えるならば、彼の肉体もまた容易に回復することはできないだろう。病いは気から、という格言は或る意味では正しい。しかし肉体の病いが或る程度回復し、たとえ順調な経過をたどっている場合でも、一度精神の死を魂に刻み込まれた者には、真の人間としての回復はたやすくはない。死の傷痕は、以後、彼の一切の思考を支配するだろう。  初めて療養所にはいった病者の多くが、一種の神経衰弱症にかかることはきわめて自然である。彼の前には、自分の病気の状態に関する明かな証明と、治癒への甚だ不確かな期待とがある。たとえ自分一人は例外的に速かに治る筈だと考えている者にも、未来は重苦しい暗雲に閉されている。さらに手術——成功するか失敗するかはまったく外科医のメスに懸っている手術への期待と不安。それとともに、今までとはまったく異った環境の中で、同室者の、同情と好奇心との入り混った眼で眺められ、自らもまた、常に自己の存在を意識していなければならない大部屋での共同生活。ここに於て、病者は(というより、彼は今や「患者」という不愉快な名前で呼ばれ始める)耐えがたい孤独を感じ始める。家族から離れ、友人から離れ、いっさいの社会的身分を剥奪され、彼の肉体的存在は、今やガフキー番号と空洞の大きさとで位置づけられる。彼は一人きりの自分を感じ、そしてその自己が、無能であり、非力であり、しかも、如何にしてこの非力の状態を持続するか、如何にして空しく安静をつづけるかという、それまでの生活では予想もしなかった価値の転換を教え込まれる。しかし病気の治療に関しては、——肉体の点に関しては、彼は医師の手にすべてを委ねていればいい、それは大舟に乗ったようなものだろう。が、精神に関しては……。そこに問題がある。精神に関しては、彼は何ひとつ頼るものはない。彼の精神は、ただ彼一人の責任である。ドラマはそこから始まる。  死はその場合、病者の一切の思考と行動とに影を下す暗黒の意識である。肉体の死、それは療養所の中の、到るところにある。夜中に聞く一つの咳も、看護婦の白い予防衣も、廊下を走る早い足音も、何もかもが死を聯想させる。彼は意識的、無意識的に、死を考える。そして、それが何の役にも立たないことがわかっているだけ一層絶望的に、考える。  そのような孤独に於て、病者は彼を周囲から切り離し、孤立する。あらゆる神経衰弱的症状が、——肉体的には、不眠、頭痛、聴力過敏などが、結核的症状の上に加わり、さまざまの愁訴となって担任医師を困らせる。彼は療養雑誌を研究し、通俗結核学の知識を覚え、主観的な誇張をまじえて医師に自分の病状を解説する。それは明かに神経衰弱的徴候である。  加えるに病者は劣等感に悩まされる。年の若い、子供のような看護婦に対してさえ自分が患者であることと、自分が健康でないこととから、奇妙な劣等感を覚える。更に感情は少しの刺戟にもいら立ち、不安と恐怖とは、彼を多かれ少なかれヒポコンデリイ(抑鬱症)の状態に追いやってしまう。彼は何ひとつ手がつかない。本を読むことも、真面目な議論をすることも、更には思考を一点に集注することも。そして、これらすべての肉体的、精神的症状の背後に、明かに一つの強迫観念がある。強迫するものは、死である。  以上のような傾向は、病者が神経質であり、また神経質にならざるを得ない環境から説明されるが、更には精神病学的観点からも眺められるだろう。 「神経質」という言葉を精神病の基礎に置いたのは、モレルである。クレッチュマーは、異常性格に於ては、分裂性性格と循環性性格とを、健常人に於ては、類分裂性性格と類循環性性格とを分って、常人と病者との間に平行する二系列を引いた。ブロイラーは、この循環性なる語を修正して、「同調性」なる言葉を使った。同調性性格者は環境に対する適応力を持ち、自己と現実とを切り離して考えることはない点で、分裂性性格者と異っている。分裂性、同調性の概念は、それぞれ分裂病、躁鬱《そううつ》病に対応しているが決して精神病に属するのではなく、健常人の領域にまで及ぼして考えられるのである。そして同調性性格というのは、療養所の内部において、決して珍しいものではない。  分裂病患者は、ミンコフスキイの巧みな言葉を借りれば、現実との生ける接触を失ったものである。彼は現実の世界から埋没して生きている。彼の深淵がいかに深く、その内部で時間がどのように停止しているかは、僕たちにはわからない。それは第三者にとって了解不能の世界である。躁鬱病患者にはこういうことはなく、寧ろあまりにも環境に作用される。従って精神病者でない単なる同調性性格者に於ても、その異常な失望感、恐怖、不安、妄想、あるいは反対に極端な社交性、快活、注意散乱等は、彼の結核における症状と比例して、増減し、継続する。  繰返して言えば、異常な神経質に基づいて、病者がどのように分裂性的、同調性的傾向を示そうとも、彼は決して精神病者なのではない。それ故、彼は不治の病いにかかっているのではなく、結核の副産物として精神上も一時的に病気になっているだけである。結核の病状がどんどん回復し、肉体の不安が次第に休まってゆけば、彼の示した精神病類似の諸徴候も、速かに回復する。これは単に、一時的な現象にすぎないが、まさにその時期に於ては、彼の内部の死或いは死の強迫観念は、精神の内的風景として、彼の意識の上に絶えず写真のように焼きつけられているのである。  こうした孤独、これは第一の段階である。この時期において、病者は意志的である。彼は手術をすすめられれば、進んでそれを受けるだろう。その結果が順調であれば、彼の気分も同時に晴れてゆくだろう。が、病状はしばしば低迷する。そして新しい恐怖が、不安が、彼を捉えて離さなくなる。受けた手術は切札ではなかった。果して彼にもう一枚の切札があるだろうか。……彼は何よりもまず癒りたいと思う。彼が意志的なのはこの点である。しかし、如何に彼の意志が強固であろうとも、結核は意志だけでは癒らない。そしてこの矛盾が、逆に病者の精神内部に言いようのない不安を与える。もう自分には意志さえもないのか、肉体が頼みにならない時に、この精神さえも自分を救う支えにはならないのか。彼は求めている。彼の求めるものは何でもいいのだ。ただこの陰鬱な孤独から逃れ、死の妄想から逃れ、自己の存在を確認するためなら。或る者は宗教へと走るだろう。が、真に自己をたのみ、自己の責任は自己しか持ち得ないことを知る者は、神へは行かない。或る者は、また、愛にすがるだろう。人を愛することによって自らを隣人とつなぎ合い、人類の一員としての自覚に目覚めようと思うだろう。愛は一つの行動である。しかし療養が長びく時、愛する者が彼のもとを去って行くこともある。彼の愛が酬いられないこともある。また、たとえ彼の愛に愛をもって迎えてくれる者があっても、彼が孤独であることに変りはない。しばしば、彼は愛していると思うことによって酔っているのだ。酔が醒めた時に残るものは、空しい後味である。彼は愛することにさえ、次第に臆病になるだろう。病者はそして、苦しい遍歴を繰返して、遂にはやはり自己に帰って来る。過去の回想に生きる時もある。バッハのト短調フーガに、マチスの一枚の複製に生きていることは美しいと感じることもある。しかし彼は常に一人きりだ。何ものも共感し合わず、響きはただ彼の内部でだけこだまする。——このような状態、これもまた一つの深淵ではないだろうか。分裂病患者のように、それは第三者にとって了解不能のものではない。僕は君の、君達の、深淵を理解する。僕自身の経験に於て理解する。しかし、それだからといって、この深淵が暗く、底深くないと誰が言い得るか。類推によって知られるが故に、個々の深淵がいたましくないと誰が言い得るか。そして苦しみは常に苦しむ者自身のものであり、如何なる他の者も、それに与《あずか》ることは出来ないし、それをやわらげることは出来ないのである。  それから、また別の状態、第二の段階が来る。結核の症状が多少とも回復し、希望が明かに芽生えてもいい時に、かえって言いようのない孤独が病者を押しつぶすことがある。彼が療養を始めた時の目的は、次第に達成されようとしている。が、果して治り切るか、また肉体は治ったとしても、この精神の傷痕は治り切るか、……そして果して「治る」とは何であろう、病気とは何であろう、と彼は考え始める。彼は病気に馴れてしまった。生きるとは、多かれ少なかれ病気の状態を持続することだ。彼は常に、壊れやすい硝子細工として自分の肉体を意識し、精神をもその中に閉じこめてしまう。彼にとってすべてはものうく、喜びも、悲しみも、意識の表面を軽やかに通り過ぎて行く。これが生きていることだ、と彼は思う。しかし彼には目的も、希望も、すべてはかない。自分は生きるに値いする、だからきっと治る筈だ、——それが前には、彼を支えている論理だった。今は、生きるに値いするとは、何という不確かな言葉だろうか。ただ生きている、——空しく。そして彼は限りもなく孤独である。  このような状態、それは一つの精神の死である。その中からは何ものも生れない。そこには意志がない。病者は肉体よりも更に精神に於て病んでいる。呼吸をする機械のように一日一日を生きている。  しかしそれは更に、第三の段階へと発展するだろう。それは自己の内部に、常に明かに傷痕を直視して生きることである。劇的に、危機の意識に於て、生きることである。たとえ彼の肉体が回復しても、彼の内部には死が共存していることを知る。彼は死と共に生きている。彼は美しく生きたいと思うように、美しく死にたいと思う。|美しく《ヽヽヽ》ということは、|人間的に《ヽヽヽヽ》ということ、喜びも、苦しみも、自然に、素直に、持ちたいと願うことである。多くの健康な人達が、自己の命数を知らず、のんきに、あるいはあくせくと、生きている時に、病者は自己の死を常に明日に見て、自らを |mortal《モータル》 と意識しつつ生きて行く。彼は死を見て来たから、最早これ以上失うべき何ものもない。内部の世界を、そのすみずみまで凝視し、それを所有する者は、彼一人である。彼の世界に責任を持つ者も彼、それを生かしかつ殺す者も彼である。彼の傷痕が深ければ深いほど、生きることもまた美しいだろう。なぜなら、彼の孤独を理解し、彼の曠野に花を咲かせ得る者は彼一人の他にはいないのだから。その時、彼は、彼の失ったものが肉体の健康であり、彼の得なければならないものが精神の健康であることを、はっきりと知るだろう。孤独はその時、英雄の孤独であって弱者のそれではないだろう。  僕はそのように考える。しかし僕がそうした境地にまで辿り着いているのではない。しばしば心は救いのない絶望に鎖され、死はほしいままに魂の中にうごめいている。しかし僕は恐れずそれを見詰め、一瞬も見逃すまいと思う。物を見ることは小説家の宿命であろうけれど、僕は人間として心の内部を見据えたいと思うのだ。  苦しむことに限りはない。特に、若くして結核に冒され、人生の最も貴重な時間を空しく病床に呻吟した者は、言いがたい痛憤を心の中に刻み込んでいる。彼の失ったものはあまりに大きい。たとえ療養所の中で、病者等がベッドを挟んで互に談笑し、人間どうしの暖かい友情が言葉と言葉とを結んでいても、眠られぬ夜に、一人一人の孤独は窮りなく深いのである。どのように神経質であり、どのように病的であっても、僕等は相互に人を責めることは出来ない。そしてまた他人から、真の慰めを得ることも出来ないのである。  与えられた状況に於て、僕等は自らの精神に頼る他に頼るものはない。社会保障制度が完備せず、経済的な不安が外部から僕等を圧迫し、結核学そのものの進歩にもかかわらず、なお完全な病理解剖学的治癒がおぼつかない時に、病者が精神の眼を見張って自らを支えていなければ、彼は内部的に崩壊し、恐らくは精神の死と共に死ぬ。そして肉体が回復した後にも、この死《ヽ》は、彼の魂に生き残り、体力の低下に伴う劣等感によって、執拗に彼を苦しめてやまないだろう。逃れる道はない。忘れようとする努力は、かえって彼の心をむしばむに違いない。ただそれを自らに肯定すること、傷痕を嘗めて、未来の死を今日に於て生きること、それが唯一の方法であろう。運命の手に操られる傀儡《かいらい》として生きるのではなく、自らの運命を知る人間として生きて行く。——僕が英雄の孤独と呼んだものは、必ずや、僕のような惨めな、つまらない人間にも、無縁ではないだろうと思う。心の暗く沈んだ時に、切に、僕はそう願う。 [#地付き](昭和二十七年五月)  [#改ページ] [#小見出し]  飛天  薬師寺東塔の美しさは今さら言うまでもない。春霞のたなびく空の下、枯れ枯れとした水田の向うに、裳層をつけた三重塔を遠望した時の第一印象、——それは風景と芸術との見事な融合と呼ぶほかはなかった。それから境内にはいり、塔のすぐ真近に立ち、ゆっくりと眼を起して行き、最後に九輪の頂きに水煙を認めた刹那、私の感動は殆ど筆舌に尽しがたいものがあった。  実はこれはすこぶる昔の印象である。私は奈良の風物や美術に関して、人に語るに足る程のものは何も持ち合せていない。というのはその地に遊んだことが極めて尠く、右の第一印象というのも私が大学を出て暫くしてから、戦争中ながらまだ世の中が比較的無事平穏の、或る年のことであった。その頃私はしばしば奈良へ出掛けて行き、「大和の春」と題すべき一冊の詩集を書こうと計画していた。しかし当時私の心象はおおむね暗く、馬酔木《あしび》の咲き乱れている古寺の境内の透きとおるような明るさは必ずしも私のものではなかった。私は文庫本の万葉集をポケットに入れ、奈良界隈の埃だらけの道をてくてく歩いたものの、それは人が行くような寺に自分も人並みに訪れていたというまでである。詩集は遂に成らなかったが、しかし私なりの幾つかの詩的印象は消えることはなかった。中でも薬師寺東塔の水煙の印象は今に尚鮮やかである。  と書いたものの、果して私はあの境内から眺めただけで、四枚の透し彫りのそれぞれにうるわしい天人たちを認め得たのだろうか。つまり私はそれ程眼がよかったのだろうか。そこのあたりの記憶は何とも心許ない。或いは複製写真などで既に知識があり、九輪の頂きにはその実物があると思うことで見た気になってしまったのか。今から七年ばかし前に私は久方ぶりに薬師寺を訪れ、昔ながらに東塔に感動し、昔ながらに水煙を見上げて感動した。しかしこの時は、寺の中に水煙の模造品が置いてあり、手を触れられる距離で詳さに見ることが出来た。従ってこの新しい印象が古い記憶と混り合って、私は二十何年かの昔、塔の頂きに天人たちの舞をまざまざと見たと信じているのかもしれない。  しかし以上は単なる前置である。水煙に遊ぶ天人たちは飛天と呼ばれているが、四枚の透し彫りの銅板のそれぞれに、笛を吹く者、籠を持つ者、花を捧げる者と、三体の飛天が描かれている。そのうち私が最も詩的幻想にいざなわれるのは、楽人であるところの飛天である。頭巾をかぶった童《わらべ》が、眼を閉じて、一心に笛を吹いている。私はその確かな造型に心打たれたばかりでなく、雲の間に音楽を奏しているというその主題にも、甚だ動じた。恐らく初めて見た時にも、造型的な面では正確に分らなかったとしても、天上の音楽という主題が私の浪漫性をこころよく刺戟したものであろう。即ち私がその時考えたものは、そして今も考えるのは、雲間に奏されていた笛の音は何処へ消えたかということである。これはただ私の浪漫性というだけのことではない。  時は過ぎ行くから私たちは一種の幻想を用いないでは昔のことを考えることは出来ない。私の二十何年か前の水煙の記憶が正確でないように、私たちは飛鳥奈良の時代をその遺物によって推し量るほかはない。そうした古代へと私たちの幻想を誘う第一のものは、恐らくはまずそこにある風景である。風景といえども昔のままということはあり得ないが、それでも山川草木のたたずまいには古代を写す面影がある。第二は文字によって残されたもの、例えば記紀や万葉集や記録の類いである。第三は建築絵画彫刻などの造型美術である。それらは文化という名で呼ばれるものだろうが、同じ文化の中でも音楽のみは、殆ど形のないもの、空想によってしか補うことの出来ないものである。雅楽には古来の楽器である笙《しよう》や篳篥《ひちりき》や竜笛や鞨鼓《かつこ》などが用いられているが、それらは日常の我々とは縁のない楽器で、他にも箜篌《くご》や阮咸《げんかん》のように後には滅びた楽器もある。また雅楽や神楽のような公式の音楽として継承されているものを別とすれば、私たちは当時の人々がどのように琴を弾き、どのように琵琶を掻き鳴らしたかを、また音楽を聞くことでどのような畏怖と憧憬と愉悦とを感じていたかを、知らない。況や飛天が手にしている横笛から如何なる調べが流れていたか、知るよしもない。  記紀の書かれた時代に、その書かれている内容は更に古代のことに属した。私は記紀歌謡に深い関心があるが、それらのうちの多くのものは、本文に例えば「夷振《ひなぶり》」とか「酒楽歌《さかぐらのうた》」とか註されていて、曲を伴い音楽を伴って口ずから歌われていた。当時の人々にとって、これらの歌謡を節廻しを以て歌いかつ聞くことは当然のことであり、それによって、彼等よりもより古代に生きた人たちの感情を、生き生きと体得していたに違いない。しかし現代の私たちはそれを知らない。文字に書かれただけのものを読み、そこに覚える詩的感動に一種の音楽的な情緒を加味しているにすぎない。  一体当時の人々にとって、音楽というものは一種の霊的な、玄妙のものであったろう。楽器を手にする菩薩や琵琶を奏でる天人は、微妙な功徳をほどこすと思われた筈である。しかしより古代に溯れば、楽器そのものが既に一種の霊力をそなえていたのではないだろうか。  私は古事記の中にある、仁徳天皇の御世の終段にごく短い挿話として入っている「枯野《からの》」のところを、すこぶる愛誦している。或る河のほとりに背の高い樹があり、その樹を切って「枯野」と呼ぶ船を建造した。船が壊れたので塩焼きの薪にして燃やしたが、焼け残りが生じたのでそれで琴を作った。七つの里に聞えるほどの音色を発したという。その歌——。   枯野《からの》を 塩に焼き   其《し》が余《あま》り 琴に作り 掻き弾くや   由良《ゆら》の門《と》の 門中《となか》の海石《いくり》に   振れ立つ 漬《なづ》の木の さやさや  琴を弾くと、由良の海峡の海の底の岩に生えてただよう海草が、揺れる時のような音を発するというので、「さやさや」という言葉が海草の揺れるさまと琴の音との両方に懸っている。その琴が船の古材で作られたという前文と見事な二重のイメージをなしているが、この琴の音に、古代人が感じたものは霊力の活動であり、それは草木の揺れ動く姿に感じられるのと等しいものであるが故に、「さやさや」という形容が両者を結びつけることになる。(ついでに言えば、こうした「タマフリ」について詳しく述べられた土橋寛氏の「古代歌謡と儀礼の研究」は、近来の好著であると私は思う。)  古代人が例えばこの「枯野」の琴に対して抱いた尊敬の念は、近代の演奏家が例えばストラジヴァリウスなどに抱いたものと較べて、遥かに呪術的である。それは一つには、楽器がそれ自体生命力を内蔵し、そのアニマが自分に乗り移ると考えたせいもあろう。また楽器は常に調和を創り出すものであり、「八つ絃《を》の琴を調《しら》べたる如」という形容なども、そのアニマを他者に押し及ぼす作用を示しているように思われる。すべての物に魂の活動を感じた古代日本人は、楽器に対しては特に神秘を感じたでもあろう。  というふうに私は次第に時代を溯ったが、薬師寺東塔の雲に舞う飛天でさえも、既に私等から見れば一二〇〇年も前の芸術品であり、永遠の時間の中で永遠の音楽を奏でているのである。私はその複製写真を見ながら、古代日本人がどのような音楽を聞いていたろうかと空想し、また虚空に消えた文化というようなことについても、さまざまのことを考えるのである。 [#地付き](昭和四十一年二月)  [#改ページ] [#小見出し]  プライヴァシィと孤独  作家にとってのプライヴァシィはどの程度に許されるものであろうか。こういう設問から始めるのは如何にも物々しく感じられるかもしれない。私は短い随筆をここに書いているので、むつかしいことを言うつもりは毛頭ない。ただ、たまたま読んだ一冊の本から、そのことについてちょっと考えさせられたからそれを書きとめておく気になった。  作家にとって作品がすべてである。——もっともそうでないという考えかたもあり、その場合には作品と等しく作家の行動、特に政治的思想的な行動が深い意味を伴って来る。しかし私は、作品がすべてで、作家のあらゆる行動は作品の中に収斂すべきものだという意見に与《くみ》する。従って作家たるものは、作品さえ提供していればいいので、何も写真や自己紹介やインターヴューなどを提供する必要はない、と考える。これはあくまで私個人の考えである。これがすらすら通るほど今の世の中は簡単には出来ていない。  私は本来が人嫌いの出無精と来ているから、自ら好んで人前に出ることはない。講演や座談会はよほどでない限り引き受けない。ラジオやテレヴィジョンは、絶対に御免である。人に写真を取られるのも厭だ。人に迷惑を掛けないつもりだから、こちらの方もそっとしておいてもらいたいのである。ところが最近私は或る出版社から一冊の書き下しの長篇小説を出した。本屋さんは本を売るのが商売だから、当然のこととして宣伝を試みる。その場に著者が、勝手にやり給えと嘯《うそぶ》いているわけにはいかない。内心では気が進まなくても、多少は宣伝の片棒を担ぐことになる。まず写真を取られる。取られた以上は使うなと言っても無理である。次に自ら宣伝用の文章を書くことがある。インターヴューにも応じなければならない。講演会にも顔を出さなければならない。サインをしてくれと頼まれることもある。そういうことを一切謝絶して、本なんか売れなくてもちっとも構わないと言い切るだけの自信がない。我ながら少々堕落したような気がするが、これがジャーナリズムに生きる身の因果であろう。作品がいつのまにか芸術的創造物から商品の地位にまで下落してしまった。しかし私にとっては、あくまで作品が全部であって、作者がどんな顔をしていようと、またどんな暮しをしていようと、そんなことは人に知られる必要のないことである。それでは山中深く隠棲して、悠々自適しながら作品だけ発表するというような生活が出来ればいいが、それは無理というものだ。要するに中途半端ということになる。  ところがフランスの小説家で、批評家をも兼ねているモーリス・ブランショという男がいる。もう六十歳ぐらいの筈だが、この男は文筆を業とし始めてから公衆の前には決して姿を現さないようである。一枚の写真もないし、だいいち何処に住んでいるか、妻子があるのかどうか、それさえ分らない。小説や評論はぞくぞくと発表され、前衛的作家として声名も高く、我が国でも「アミナダブ」や「文学空間」などの翻訳は広く読まれているが、作品の他には何も知られていない。恐らく出版社に原稿を送りつけて来るのだろうが、印税はどうやって受け取るのか、人ごとながらいささか気になる。  ブランショの場合、なにしろ居場所が分らないからアリバイは完全だが、もう一人、頑固にプライヴァシィを守ろうとした大物がいる。ウイリアム・フォークナーである。私がこの文章の初めに述べた一冊の本というのは、マルカム・カウリーの著した「フォークナーと私」で、近頃冨山房から翻訳が出たが、内容と言い訳文と言い、責任を以て人にすすめることの出来る好著であると思う。このカウリーはフォークナーと同時代に属する批評家で、最も早くフォークナーの芸術を認めた一人である。第二次大戦の終り頃までにフォークナーは約十七冊の著作を出していたが、アメリカではまったく認められず、図書館や古本屋に行っても本がないという有様だった。それをカウリーが、一冊本の「ポータブル・フォークナー」という選集を編輯し、そこにすぐれた解説をつけて、一九四六年に一般の読書人に紹介した。それが契機となって彼の旧作は復刊され、やがて(もっともフランスでは夙に高く評価されていたが)四年後にノーベル賞を得て世界的な名声を得ることになった。  しかしその頃でも、フォークナーはアメリカ南部の田舎町オクスフォードで、広大な農園の中に閉じ籠り、自分のプライヴァシィを強情に守っていた。「ライフ」の記者が彼の生い立ちや生活についての写真入りの曝露記事を書いた時に、彼はプライヴァシィについての断固とした文章を認《したた》めているが、その草稿の一節に「一人の人間は、次の人間の自由が始まるまさにその地点でとどまらなければならぬ」と書いている。既にカウリーが、その解説の資料としてフォークナーの伝記について尋ねた際にも、彼は教えはしたがそれを公表することに対しては決して譲らなかった。そしてカウリーはその解説の中でヘンリー・ジェムズを引用しながら、フォークナーが「自ら好んで孤独を選んだ作家」であることを認めると共に、その孤独のために作品が「ぎごちない実験」になる恐れがあると言っている。孤独であることはその代償を要求するのである。  私はフォークナーの例を出すことによって自分と較べてみようなどという僭越な気持はない。閉じ籠るべき農園を持たず、滾々と尽きることのない想像力の泉を持つわけでもない。しかし出来るならば自分のプライヴァシィを大事にして、「ぎごちない実験」を書き続けて行きたいものである。つまりなるべくそっとしておいてもらいたいのである。 [#地付き](昭和四十三年二月)  [#改ページ] [#小見出し]  日の終りに  私は一人の芸術家の作品を知るためには、その作品のみがあれば足りる、作者の私生活の面まで詳しく知るには及ばないという主義である。但しこれは原則としての話で、同じ芸術家でも例えばベートーヴェンのような音楽家、ゴッホのような画家、ポオのような詩人、ドストイェフスキイのような小説家の場合に、その作品を理解するために生涯を知っている方が楽だという点は認めよう。しかしそれも理解するためであって単に鑑賞する、或いは愉しむためには伝記なんか知らなくても少しも構わない。作品はそれ自体の中に作者である芸術家の魂を含んでいる筈だから、謂わば作者の手を離れた時に一人歩きを始めているのが当然だ。作者の私生活という照明を当てなくても、すぐれた作品はそれ自体の内部からの輝きによって光を放つものである。しかしこれは私が自分を鑑賞家の立場に置いた時の話で、或る一人の芸術家を理解する、解釈する、批評するという立場に立てば、私とてもその生涯に無関心であるわけにはいかないし、多少とも伝記を調べようという気にはなるけれど、それも本人の書いたものがあればそれを見る程度でこと足りるので、細かい穿鑿はしたくない。この頃は実証的研究が進み、特に我が国の近代文学の作家たちは戸籍上はもとより身辺の行動まで探索され追跡されているから、それ程までしなければ彼等の文学を理解できないのかと私などは時々訝るくらいである。フランソワ・ヴィヨンは詩人で泥棒だったが、彼が泥棒だったことは詩を読んでも分るし、シャンピヨンのヴィヨン伝は興味津々たる名著には違いないとしても、それを読まなければヴィヨンが理解できないというものでもないだろう。もっとも古典的な作家の場合には伝記研究は学問の分野だから、私のように鑑賞のみで足りるとする立場から見るのとはまた違っているだろう。私は気楽に音楽を聴き、絵画を見、文学作品を読むのが好きだから、学者の仕事の恩恵は蒙るがそれは作品の独立性を左右する程のことはないと言いたいだけである。これもフランスの例になるが、アルチュール・ランボーは「イリュミナシオン」という一群の詩を書いた後に最後の詩集「地獄の季節」を書き、そこで文学と訣別してアフリカに去ったというのが従来の定説だったが、二十年ばかり前にラコストという学者がすこぶる実証的な研究を発表してこの順序を入れ換えた。そのために「地獄の季節」はランボーの白鳥の歌ではなくなってしまい、諤々の議論を生んだ。私は青年時代にランボーとロートレアモンとに熱中し、その後は象徴詩人と言えばボードレールとマラルメを愛読しているだけで、ランボーやロートレアモンに関してはとうに卒業したつもりでいたが、こういう学問的論争は推理小説のように面白い。しかしラコストの議論が仮に正しいとしても、嘗て「地獄の季節」を白鳥の歌と取ったクローデルや小林秀雄氏の意見が修正を要求されるものではないし、順序がどうあろうともランボーの詩そのものの持つイリュミナシオンは依然として光を放っているのである。そういう点に文学の面白さというものがある。或いはそういう点に、謂わば学者的興味と文学者的興味との差のようなものがあるだろう。      ○  私はランボーを卒業したようなことを言ったが、ランボーやロートレアモンについて私が彼等と同じ年代、というのは二十代ということだが、その頃に読んで分った程度から、或いは少くとも分ったと信じた程度から、我ながらどのくらい進歩できたものか疑わしい気がする。確かに私たちの芸術鑑賞は年齢に応じて進化して行くものである。進化というのは必ずしも進歩ではないから、私が今もしランボーの詩一篇を取り出して味読したところで、大学生だった私が分ったようには分らないかもしれない。学問的な解釈は色々とつけられるだろう、が一番肝心なところ、つまりランボーの魂のようなものはその時ほどには会得できないのではないかという懼れがある。その代り私は、むかしその表面の意味だけを理解したボードレールの晩年の散文詩に対して、実感を籠めて頷くことが出来るのである。年齢とともに好みも変るだろうが理解力も変って行く。私は何も近代の作品に厭きて古典に帰ったとか、西洋の詩人たちよりも東洋の詩人たちを好むようになったとか、聖書よりも仏典を繙くことが多くなったとか、そんな老人じみたことを言っているわけではない。私はすこぶる気が多いから、フランスの新しい小説などを勉強というのでなしに面白く読む。もっとも面白くなければやめてしまうが、ただそれと平行して昔は見向きもしなかったものに対していつしか心惹かれている自分を発見して驚くのである。例えば徒然草、こんなものは受験の参考書にすぎなかった。例えばブラームス、昔はショパンの方が何層倍も好きだった。例えばレンブラント、あの暗さは青年の私には我慢のならなかったものだ。とは言っても、人は急に変るわけではない。徐々に、眼に見えないところで、自分の好みが変って行く。その変りかたが自然であるだけにかえって無気味な気がしないでもない。妙な譬えだが電気剃刀でひげを剃ると微塵のような滓が出る。その真黒な粉末がこの頃いつのまにか灰色になっている。それは白い毛が混っているせいだが、頭髪に混った白髪が目立つのと違って、ひげの方は殆ど気がつかないうちに白くなって行く。そして私は電気剃刀を掃除しながら、いつも憮然とした表情を浮べているに違いない。老は私の場合に顎ひげのあたりから忍び寄っているらしい。      ○  私が作品があれば足りる、その作家の私生活まで知るには及ばないという簡単なことを言うのに、古典的な作家の例ばかりあげたのは大袈裟だった。私は自分のことを書くつもりでいて伏線を張りめぐらしているうちに、少々筆が滑ったようである。たとえ僭越の謗を免かれないとしても、私は私なりに私生活については人に知られたくないし、ましてや自分から公表しようなどという気はない。と言っても随筆などで結構身辺のことを書いているではないかと人に咎められるならば、随筆もまた文学の一ジャンルで告白とは別物だから、適当に誇張した部分と故意に省略した部分とがあって、更には想像力が働いていないものでもないと答える他はあるまい。しかしまあ自分で書くのは高が知れている。私小説を主義として書かない以上は、私的な随筆によって「はらふくるる心ち」をやわらげることもあるだろう。そんなものは大して人目に触れるわけではないから、有難いことに私はひっそりと暮して行くことが出来る。私が今までに書いた小説のうちで一番広く読まれているのは「草の花」だが、これについては時々大学生や高校生あたりから奇抜な手紙が来る。その一つをあげれば、作者はとうに死んだと思っていたらまだ生きてると知ったのでお手紙差し上げます、というのがある。いくら小説の主人公が死んだからと言って、作者まで殺されてはかなわない。まだ若い人だと思っていたら案外に年を取っているので驚いたとか、結婚なさっていると分ってがっかりしました、あの作者は結婚なんかしてはいけないんだ、という猛烈な干渉まであり、そういう時に私はカリオストロのように、或いはドリアン・グレイのように年を取らないでいる方法があるかなと考えたりもするが、実のところこういう無邪気な感想を私としては結構愉しんでいるのだ。作品がありさえすればいいので、めったにその作者に好奇心を起して調べたりすると意外な失望を感じる懼れがあることを読者にも分ってもらいたい。私は女性週刊誌というものを新聞の広告でしか知らないが、あの凄まじいプライヴァシィの侵害は演芸に携わる人たちにとっては不可避な性質のものなのであろうか。文士がそうした対象にならないのは、それだけの商品価値がないということもあろうし、また文士の方にもペンがあって自分の立場を明かに出来るからめったに手が出ないということもあろうし、だいたい小説家の顔写真なんかが載ったところでちっとも面白おかしくはない。しかし反対に自分の存在を宣伝することが文士の側に積極的に見られるような点もあり、むかし「三文」文士、今や「流行」作家と名称も形容詞も変り、これが上は文化人の、下は芸人の、仲間入りをするのが当り前のようになって来た。文化人と文士とは同じ文の字がついても中身は違うと私は考えるが、やれ声明だやれ署名だと事あるごとに意見が開陳され、騒動が起れば新聞記者とともに腕章を巻いてルポルタージュを書きに駆けつけ、従って社会の木鐸を以て自ら任じるとか、一方にはまた顔に油を塗ってテレヴィで演説したり白粉を塗って文士劇や素人劇に出演したりするというのは、要するに文士の格が上ったということになるのだろうか。私は皮肉を言っているわけでも羨んでいるわけでもなく、ただそういうことが性に合わないから自分がしないだけで、人のする分には結構愉しんで見守っている。もっとも愉しむだけでは済まないような、自分の政治的立場を明かにしなければならないような事件が起れば、その時は私もこのような古風なことを言ってはいられまい。しかし私はずっと非政治的人間で通して来たから、今のような政治的季節でもなるべくそっとしておいてもらいたい。つまり私が好きなのは自分の狭い書斎の中に閉じ籠って、気儘に読んだり見たり聴いたりし、むやみと煙草を吹かし、好き勝手に昼寝をし、そして時々は字を書くことである。教師を兼ねているから学校へも通うが、その他は大人しく机の前に坐っていれば足りる。病的に出無精と来ているから、よほどのことがない限り外出はしない。まあ世の中で最も無難な人間の一人であろう。      ○  戦前の私は平凡な一学生にすぎなかったから苦労と言っても専ら精神的なものに限られていたが、戦争中からそろそろと危い思いを重ね、戦後は久しく深淵の傍らを爪先立ちで歩くような生活を続けた。戦後私が物を書くようになってから、加藤周一と中村真一郎と一緒に仕事をしたせいか我々は一からげにされて戦争中に高見の見物をしていたようなことを言われ、軽井沢コンミュニストなどと罵られたが、その当を得ていないことは中村真一郎の「戦後文学の回想」とか加藤周一の「羊の歌」とかを読めばおおよそ明かだろうと思う。私は記憶力にも乏しいしまた昔の自分の生活を思い出して弁解しようなどという気はさらにない。ただ私は先日五十一歳の誕生日を迎え、その時昔の或る情景を思い出してよくもまあ生き延びたものだという感慨を催した。昔というのは昭和十七年の十二月のことでその時私は二十四歳だったから、既にその倍以上の歳月を生きたことになるが、私は第一補充兵の召集を受けて横須賀の不入斗《いりやまず》にある重砲兵聯隊の門を潜った。私はその前年の春大学を卒業し、徴兵検査に備えて素うどんの油いための他は一切採らず営々として痩せるべく努力を重ねたものの、結局は第二乙種になったのが精いっぱいのところだった。従っていつ応召の赤紙が来るか分らず、大学を出てから日伊協会というところにぶらぶらと勤めていたがどうもそこでは危険なので、その年の春参謀本部に職を移して第十八班に所属していた。任務は暗号解読である。しかし参謀本部の権威も及ばず遂に召集が来て、私はすごすごと羊の如く屠所に引かれた。私が兵隊に取られるのを無闇と懼れたのは、侵略戦争反対の気持に加えるに精神的な理由、つまり戦場に出て人を殺すことへの恐怖心もあったに違いないが、正直なところ肉体的な恐怖心の方がより強かっただろう。というのは私は大学を出てから強度の不安神経症に悩まされていて、正確には発作性頻脈症というのか不意に烈しい頻脈、呼吸困難、窒息感、嘔気、めまい、悪寒などが起り、それが何等の予告なしに私を襲い、従って手の打ちようもないというわけで、二六時中戦々兢々としていた。後になって内田百氏とか亡くなった三好達治さんなども同病であったことを知ったが、当時私の周囲にこんな不可解な症状を持っている人間は見当らず、心細くてならなかったものだ。そこで坊主頭で兵営の門を潜ると、補充兵の召集は当日とその前日との二日行われたが、今しも前日入隊した連中が馴れないカーキ色の服を着て幾列にも並び、一人ずつ痛そうな注射をされている最中である。説明によると、前日入隊した補充兵は南方第一線行き、今日の予定者はソ満国境行き、任務はいずれも要塞重砲とのこと、それを聞いて私はこれはもう駄目だ、せめて昨日の分に入っていたら助かったものをと考えた。それは私が寒がり屋であることに起因しているが、私のはただの寒がり屋程度ではなく子供の頃から毎年冬ともなれば悪質の霜焼に悩まされ、それが大学生になってもまだ耳や手や足が化膿する位で、寒さに対しては一種病的な恐怖心があった。その私にとってソ満国境などというのはまるで人を凍死させるために存在する場所のような気がしたし、加えるに発作性頻脈症はその検査の日は一日中起りっぱなしだったから、私が何としてでも即日帰郷になりたいと願ったのは無理からぬところと言える。私は間接撮影で胸がおかしいと言われて午後の再検査にまわされ、しかしそれも大したことはないというので、いよいよ駄目かと観念しかけているところに、軍医が私の腹に巻いた腹帯を見て、どうしたと訊くので盲腸炎で入院していましたと答えた。すると軍医は指の先でその部分を突き、痛いかと訊いたのだが、この時謂わば阿※[#「口+云」、unicode544d]の呼吸で私は、痛い、と世にも悲痛な声をあげた。これが痛くないかと訊かれていたら、私は恐らく正直に痛くありませんと即答しただろう。この腹帯こそ最後の切札で、前日大学病院で入念に巻いてもらい、証明書をつけるとかえって心証を悪くするから、もし訊かれたらよく説明するようにと医者から注意を受けていた。この盲腸炎も腹膜炎を併発していて、入院がもう少し遅ければ命に関るところだったが、思えば人生という書物はうまいところに盲腸《アペンデイクス》がついているものである。私は、よく静養してこの次は丈夫な身体になって来いと宣告され、夕闇の迫る陰惨な兵営をあとにして実に歓喜の微笑を噛み殺しながら横須賀の駅に向ったが、この日一日中裸でいたために風邪を引き、暮から正月に掛けて肺炎を起してまたまた死にそうな目にあった。しかし今から考えれば、もし軍医があの時痛いかと訊いてくれなければソ満国境に持って行かれ、たとえ寒さで死ななかったとしても敗戦後シベリヤに連れて行かれて到底生きて祖国に戻ることは出来なかっただろうと思う。とすればそれからの私の生活とか苦労とか況や仕事とかいうものもなく、私が五十一歳の誕生日に感慨に耽るということもなかっただろう。しかしそんな事件は誰にでも覚えがあるだろうから、私ひとりが特別というわけではない。      ○  人が苦労をしたのを読むのは、謂わば安全な桟敷から舞台を見ているように面白いものである。私は内田百さんの愛読者であること人後に落ちないつもりだが、百鬼園先生の貧乏話は無類の諧謔に富んでいて、御本人にとっては苦の種のところが読者には込み上げて来る程おかしい。こんな文学は世界広しと雖も俳諧と狂言との伝統を持つ我が国の特産物ではないかと思うが、それを認める人が尠いのは残念である。それはさて措き、いくら苦労をしたと言っても、貧乏は話になるが病気にはまるで滑稽味がないから、そんなものを読まされるのは読者の方でも厭になるだろう。しかるに戦後の私は、多少貧乏の方とも縁はあったものの主体は病気で、これが戦後は昭和二十八年まで結核サナトリウムにいたとか、そのあと神経性胃炎で二年か三年おきに都合四回も入院したとかいうのでは、面白味に於て格段に劣ることは言うまでもない。況や私には諧謔的文章を弄する才能もなく、だいいち結核が死亡率第一位から転落して以来、せっかく私の長期にわたるサナトリウム生活も小説的題材にはならず、随筆のたねとしてもあまり有効ではない。私は北海道の帯広の療養所にもいたし、東京郊外の清瀬の療養所にも足かけ七年いて、それこそ霜焼どころか凍死しそうな目にもあったが、その頃これが癒りさえすれば小説の材料は無数にあると安んじていたのも束の間、新薬の発明とともにサナトリウム小説はあっというまに古びてしまった。そのことと私が自分の経験を書こうとしないこととは無関係だが、人には言えることと言えないこととがあり、言えないことは無意識の底に沈んで徐々にその人間を、その人間の性質とか世界観とか行動力とかを、つくり変えて行くような気がする。少しだけ言えば私は私の最も苦しい時期に妻に逃げられ、サナトリウムの中で悶々として暮し、それから気を取り直してやがて退院とともに別の女性と再婚した。病気が悪かったからいよいよ死ぬかと思ったことも幾回かあり、その度に生きることの価値を再認識したが、はっきり回復したかどうかも分らない私が、やはり結核の予後を養っている女性と結婚することに多少の不安を感じていたとしても無理はなかった。私たちは育って来た環境も違い、生活も違い、それに金もなければ彼女の実家からの承認も得られなかった。私のようなボヘミヤン気質の男が、有能な市民になれる筈がないと思われたのだろう。しかし私はそうなるべく努力し、大学の教師を勤め、衰えた語学力を取り戻すためにあらゆる単語をいちいち字引を引いて当り、その合間に生きていることの、或いは生き延びたことの証拠として、少しずつ小説を書き始めた。私は一つとして自分に対して意味を持たない小説は書いたことがない。小説などというのは雑駁きわまりないもので、所詮は音楽のような純枠な芸術に近似値的に近づいて行くにすぎないのだろうが、しかしそれでもやはり人の一生を托すに足りるものであるような気が私にはする。現実というのが途方もなく巨大であるとしても、小説は小説なりに現実の破片を捉えることは出来るだろう。たとえ現実の縮図ではないとしても。そして私は縮図よりは寧ろ破片を、言い換えれば全体小説よりは寧ろ純粋小説の道を、生きようと決心した時に選び取っていたのであろう。      ○  黄昏の不入斗の高台で海からの寒い風に吹かれた時以来、私は風に舞う木の葉のように転々とした。不安神経症は多少は軽微になったものの現在も依然として続いていて、何だかそれが私の文学の根本のところを左右しているような気さえするが、この突発する発作は私を引込思案にすると共に、何処にいても同じだという破れかぶれの気持を起させるところがあった。戦後は長く、もう戦後ではないと言われてからも長いが、人間は苦労をしてそのために成長するタイプと、反対に苦労が身につかず結局は何の得にもならなかったタイプとがあり、私などはまさに後者の代表なのだろう。最後に清瀬の療養所を出てから私は人なみに市民生活を営みながらその十五年間に七回ほど引越をしたが、それは私のボヘミヤン気質がせめてこうした移転によって幾分の気晴らしを求めていたせいかもしれず、附き合された細君の方こそいい迷惑だった。私は一箇所に腰を下してしまうよりも借家から借家を転々とする方が好きなのだ。一所不住という程のことではなく、畢竟文士などというものは根なし草で借家住いが分相応だと思ったまでである。もっとも私は信濃追分に玩艸亭と名づける小さな山荘を持っていて、憂さ晴らしに年に何回となく出掛けて行ったものだが、例えば夏休みのような比較的長い間向うに滞在するとなれば、蒲団から食料品、必要な書籍に至るまで大量に運ばねばならず、これまた小型の引越というに足りた。従って私の方は根なし草だなどと気楽なことを言っても、細君にしてみればさぞや大変だったろう。この数年来細君が健康を害して遠出は無理になったために、我々が追分に行くこともぱったりとなくなってしまった。  その私が昨年の秋、すぐ近くに出来た建売りの家を買い何となく永住の構えを見せたというのは、私に無理算段の当てがあったとか、漸く老境を意識したとか、細君に長い間苦労を掛けた罪滅ぼしだとか、いろいろ理由はつくだろうが、とどのつまりはこの場所が気に入った、その建物も狭いなりに気に入ったということになるだろう。すぐ近くに大地主がいて空地が多く、二階の窓からは武蔵野を思わせる竹林や欅の老樹が見え、日の落ちがけには群雀が幾千羽も集まって一しきり騒ぐ。そのほかは一日中静かで私のように鋭敏な神経を持っている者には有難い。私は京都に行くたびに、一生のうちに一度は東山の麓とか嵯峨のあたりに住むことが出来たならと思わないことはないが、東京のような味気ない都に暮していればせめて少しでも空気の清浄なところ、界隈の静かなところに住みたいと思うし、景色の方は借景で間に合せ或いは近くを逍遥すれば済むのだから、この辺で落ちつくのが汐時だと考えるに至った。そこで首尾よく借金をしてこの建売り住宅に移り住み、内部を改造して狭いところに無闇と物を積み込み、と言っても物らしい物は本ばかりだが、漸く年が明けて少しは落ちついたところで好事魔多し、隣の空地にべらぼうに大きな違反建築の工事が始まった。爾来思わぬことに関り合ってまさに寧日なしである。      ○  ここに道路に沿って全体で百三十坪ばかりの長方形の土地があるとする。この附近は第三種空地地区に属するから、敷地に対して建築物は延べ面積の四割までしか建てられない。二階家なら上下合せて四割までということである。そこに建売り専門の会社が延べ約二十二坪の二階家を二軒建てた。適法だから竣工検査済証も立派に出ている。そのあとで会社はほぼ同じ四十三坪ずつに土地を三等分して、仕切りの塀をつくった。仮にABCとすれば、AとCとに新築の家が含まれ、中央のBは空地である。そこでもし会社がBの空地を売り、買った人がそこに家を建てるとなると、AとCとにある建物はたちまちにして建蔽率違反になってしまう。以下ABCはそれぞれの土地、建築物を指すばかりでなく、それを所有している人をも指すことがあると思ってもらいたい。Aがつまり私である。  私はこの建物を買った時に、まさかこれが違法だとは思わなかった。書式は完備しているし、建売り会社の男は大丈夫だと約束する。詳しく言えば、この会社は一年ばかり前に、この同じ土地に三軒並べて違反建築を建てようとし、住民の陳情で区役所が中止を命じて自発的に取り壊したという前歴があった。だから今度はそういう悪いことはしないだろうという気持が、私の方に働いていたのかもしれない。後からつらつら慮ると、この建売業者は前の手で失敗したから次の手を考えたまでである。そのためにABCの三軒ともとんだ苦労をすることになった。ところで私はBの空地が気になるから、建売り会社についでにこれも売らないかと持ちかけ、C氏も同様の交渉をしていたらしいが、結局はB氏に売られてしまった。そして年が明けて我が家がはやり風邪で全滅している間に基礎工事が始まり、あれよあれよというまに途方もなく大きな骨組が出来上った。一階の分が二十坪、二階の分が十二坪、合計三十二坪で敷地に対して七割以上もある。AとCとの建物は一階が十五坪、二階が七坪の合計二十二坪で三等分された敷地の五割に当る。適法なら四割の十七坪までしか許されない。  私は数字に弱く法律にも弱いし、自分の馬鹿さ加減を何も天下に知らせる必要はないわけだが、しかし違反建築の問題は私個人にのみ関ることではない。私は必要に迫られて建築基準法を熟読玩味したものの、六法全書なんかをいちいち見なくても暮せるのがお上の御威光というものではないか。ついでに言えば私は旧制の高等学校を出た年に親父の命令で大学の法学部を受験し、ものの見事に滑った経験がある。従って六法全書とはまったく縁がなく、今ぱらぱらとめくってみると「法律ヲ知ラサルヲ以テ罪ヲ犯ス意ナシト為スコトヲ得ス」などと物騒なことが書いてあるので、なるほどそんなものかと感心したりもするが、出来ることなら法律とは無関係に過したいのが市井の一庶民の感覚であろう。  従って隣の土地に違反建築が建ちつつあるのに、私は最も遅く慌て出した一人で、C氏が自ら区役所に掛け合いに行き、近所の人たちやうちの細君が電話で文句をつけたりしている間も、そのうちにB氏と話し合いがつくだろうと高をくくっていた。このB氏が国立病院の神経科の医者だと聞いたので、これは有難い、年来の私の神経症もこれで直るかと先走って考えた程である。それというのも私は病人であることの経験では余人にひけを取らず、医者の書いた参考書に対してこちらは患者学とでもいった書物を書こうかと一時は本気で考えたこともあるくらいで、とにかく沢山の医者を友達に持っている。医者というのは大体に於て良識ある人間ばかりで無茶なことはしないものだ。そういう私の先入観が忽ち破れたというのは、この巨大な建物のこちら向きに台所の窓ができ、しかもそれが出窓となって一層接近し、更に換気扇までついた。その位置たるや下の書斎の窓の真前で、距離は低い塀ごしに手の届くほど。つまりは私が原稿用紙を広げていようものなら、食いたくもない食物の臭いが鼻を衝いて思考能力を鈍らせること請合いという寸法である。もっともちょっと夜食を取ろうとして醤油を忘れたという場合には、我が家の台所まで行くより、窓から手を延して済みませんが醤油差しを貸して下さいと言えば足りるから、少なからず便利だと考えられないこともない。なぜこんな妙なところに台所があるのかと言えば、B氏は勤めのかたわら此所で医院を開業する予定で、従って道路側には待合室やら診察室やらがあってそのために台所が南へ来たものだ。しかもこの家には合計五箇のクーラー用大穴が明いていて、そのうち三つまでが我が家を直撃し、一つは便所の窓を、一つは風呂場の窓を、もう一つは二階の洋間の窓を狙っている。五つとも唸り出せばさぞかし壮観だろう。どんな間取をしようとその人の自由かもしれないが、少々傍若無人ではなかろうか。これでは温厚な君子でも奮然と立ち上らざるを得ない。  思えば台所の出窓とかクーラー用大穴などは枝葉末節の話、要はこの建物が非常識に大きすぎるからだとおくればせながら気がついたので、さっそく陳情書|附《つけ》たり理由書というのをしたため、近所を歴訪して署名を集め、東京都建設局とか世田谷区役所建築課とかへ出掛けて行った。勿論私一人で出来ることではなく、細君はじめ近所の人たちの応援を仰いでのことだが、お役所には特有の雰囲気があり、気の弱い庶民が恐れながらと申し上げるような気持になるのは是非もないところ。それに対してお宅も五割で違反なのだから、隣が七割を越えていても我慢しろというのが区役所の役人の言い草で、狭い敷地の中ではその差が如何に大きなものにつくかは考えてもくれない。隣は明かに違反なのだから、せめて工事を中止させてもらえないかと頼んでも、個人の住宅では赤紙は張れないの一点張り。こちらは素人の悲しさで法律には昏く体力にも乏しいから、遂に決心して弁護士さんを頼むことにした。弁護士さんの見解は私の蒙をひらくに充分だったが、その趣旨はこうである。私たちの建物はもともと適法であり、しかも建築基準法の第八条に従って、「敷地、構造及び建築設備を常時適法な状態に維持するよう努め」て隣の空地を手に入れようとしたが、これに失敗した。その空地を買ったB氏が確認申請を出した時に、区役所はその土地が二重に使用されていることを知りながら手を拱いていて、そのために建築が始まり、それと共に我々は違法の建物を所有していることになってしまった。つまり我々は初めから違法の建物を買ったのではなく、無理に違法にされてしまったわけである。いくら建築基準法に不備な点があると言っても、私たちのように隣に明かな違法の建物が建ちつつあると訴え出たら、こちらも同罪というのでは筋が通らない。時点を溯ればもともと違法ではなかったというのが弁護士さんの意見で、何も恐れ入るには及ばないというのである。      ○  今年は春の来るのが遅く、二月から三月にかけて私は憂鬱な気分で毎日を過した。教師を勤めている以上この季節には在校生の試験、卒業生の試験、入学試験と相継ぎ、会議にはひっきりなしに呼び出されるし、ゆっくり机に向って物を書く暇もない。私の行く大学は有難いことに騒動が持ち上っていないから、そんな苦労は高が知れている、贅沢な奴だと叱られそうな気もするが、終日隣の工事場で騒音を立てられ、一日一日とその建物が進捗して行くのを眺めながら、陳情に駆けずりまわっても手も足も出ないというのは情ないものだ。学生騒動なら天下の一大事、こちらはたかが違反建築騒ぎで、蝸牛角上の争いだと達観してしまえば世話はない。とてもそんなに簡単に泣き寝入りは出来ない。特に一年前に同じ場所に取り壊しの一件があったのだから今度だけ見逃されるのはどうも腑に落ちないし、近所の人たちにとっても同様で、これが市民的団結というものであろう。とにかく目ざわりなほど大きいのだから誰でもおかしく思う。そこで近所の人たちの胆入りで話し合いの場所がつくられ、B氏の方は工務店の責任者にやはり弁護士がついて出席し、いろいろやり取りがあったが実を結ぶほどではなかった。しかしここに至ってやっとのことで区役所が動き出し、B氏とその工務店とには工事停止令、AとC氏とには是正命令の事前通告が出た。一割の超過分を削り、境の塀から一メートルの間隔を保てというのである。我々が是正されるのは筋が通らない、まずBの建物を是正するのが先だと弁護士さんが説明してくれるから安心はしているものの、いざこれが塀沿いに一メートル分だけ削るというのを実行したら、我が家のような安普請の建売り住宅はとても満足に建ち続けていることは出来ない、ぺしゃんこになることは間違いない。そうなった暁にはまた借家でも探すさと細君を宥めている。  この冬は春も間近になって珍しく大雪が降った。二月二十七日、三月四日、三月十二日と、わざわざ日を書きとめておくだけの値打がある。雪が降って悦ぶのは犬ばかりとは限らず私のような者もしきりと心が動くが、今年はそれどころではなかった。最初の大雪の次の日は夕刻になって美しく空が焼けた。空は一面に黒雲に覆われ、地平線には箱根の山々がくっきりと影絵のように浮び上り、その間を刷毛で掃いたように水平に残照が輝いていた。その燃えるような紅《あか》みが屋根屋根の上の残雪を照し出した。もっとも隣の建築中の家の二階が南に張り出しているから、眺望は前ほど自在ではなくなったが、それでも私は感に堪えたように刻々に暮れて行く西の空を眺めやった。「ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふあまつそらなる人をこふとて」という読人不知の歌とか「雪のみやふりぬとは思ふ山里にわれもおほくの年ぞつもれる」という貫之の歌などを何となく思い出しながら寒い風に吹かれていた。或る種の風景の中に耽溺するのは私の悪い癖で、耽溺という代りに没我とか恍惚とか呼んでもいいが、そういう時私は自分が永遠とでも言えるような別の次元に属していて、私の存在が風景と一体化してしまったような奇妙な錯覚を覚える。しかしそんなことが長く続く筈もなく、私はすぐに現実にかえり、強迫観念のように附き纏うこの違反建築について頭を悩ました。私たちの人生はこういう俗っぽい事件を抜きにしては成り立たず、大雪が地上を白く塗り潰したところでものの二日とは続かないことを、忌々しいが認めないわけにはいかなかった。      ○  夕暮に物を思うことは一種ロマンチックな色彩を帯びるとともに何となく悲愴な感じを伴うから、むかし私がサナトリウムにいた頃は日の終りにぼんやりしていると碌なことは考えなかったものだ。しかし人間は悲観的になってもそれが取越苦労という場合もあり、以来私は自分をなるべく楽天的に育て上げて来た。それに感傷的になる年頃には既に遅く懐古的になる年頃にはまだ早いから、現在の私は要するになるようになるだろうという純粋観客の立場に立つようにしている。しかし隣の工事は中止になっても、当方からの再度の話し合いの申し入れに対してB氏側は梨の礫で、こういう睨み合いがいつまで続くものか。細君はちょっとしたニュースにも一喜一憂して、私に言わせれば一喜一憂一怒一泣という長い形容になるが、そんなことじゃ身が持たないよと私は忠告することにしている。そういう私にしても悠然と構えていられる程の豪傑ではない、ただ弁護士さんに任せた以上待つ他はないと思うだけである。私はこの事件で多くの人に会い多くの意見を聞いたが、偉い役人に偉くない役人、近所の善良な市民、新聞記者、区会議員、弁護士、それに相手方のB氏など、とにかく経験だけは豊富にすることが出来た。私は多少とも感情移入を試みて人の心理状態を推測することが出来るから、B氏の気持も分らないわけではない。値の高い土地を買って、病院勤めの傍ら開業もしたいと思えば、なるべく大きな家を建てたくなるのも無理はない。しかし四割の建蔽率のところに七割以上も建てるとか、隣家の迷惑は何等考慮しないとかいうのではどう見ても良識があるとは認められないし、結局は建て得になるものとこちらを甘く見ていたことになろう。区役所にしてもまさか我々が、というのはC氏も近所の人たちも含めて、これほど頑張るとは夢にも思わなかったのだろう。私は何も良識の見本のような顔をするほど世故に長けている筈もないが、或る週刊誌がこちらの言い分に対してB氏の弁駁を発表し、その中に「奥さんだって、うちの主人は勉強ばかりしてて、常識がおかしいと思う、とおっしゃってる。そういう分裂した家庭とは話し合いにもならないでしょう。」という箇所があり、細君はわたしはそんなことを言った覚えはない、話し合いの時以外は会ったこともないんだしBさんの捏造だと弁解しているが、私にはそんなことはどうでもいいのである。というのは鴎外の蘭軒伝に「わたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。」とあるように、何も今さら常識を涵養しようと思ったところでどうなるものか。ただその私でも、少くとも他人の迷惑にならないよう心掛けるくらいの良識は持ち合せている。つまり私の主義は人のこともそっとしておくから、当方もそっとしておいてもらいたいという点に尽きる。もともと違反建築なんかで騒ぐのは私の柄ではないし、その私が巻き込まれるというのはよくよく運が悪いか政治が悪いか、いや非政治的人間と前にも書いたのだから口幅ったいことを言うのはよそう。ただ建築基準法というものが現にある以上、無闇にこれを無視していいということにはならないだろう。  日が長くなり夕暮もそれだけ明るくなって、春も間近なことを思わせるが、私はぼんやりと窓に佇んで日の暮れて行くのを眺めながら浮かない顔をしている。楽天的たらんとして自分を訓練したと言っても、長年飼って来た憂鬱の虫は私の心を噛むのである。 [#地付き](昭和四十四年三月二十五日記)  [#改ページ]   掲載紙誌一覧 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 別れの歌 一、二 「文学界」昭和二十八年八月号原題「最初の夏」 三、五 「近代文学」同年九月号原題「別れの歌」四 「文芸」同年八月号原題「告別」 追分日記抄 「新潮」昭和二十八年十月号 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 信濃追分だより——  信濃追分案内 「週刊新潮」昭和三十一年九月十日号  新緑 「芸術新潮」昭和二十九年七月号  ノートラ 「三田文学」昭和三十年十二月号  王様のお相手 「東京新聞」昭和三十二年九月一日附夕刊  ジンギスカン鍋 「毎日新聞」昭和三十三年一月十一日附夕刊  王様の行方 「東京新聞」昭和三十三年十月四日附夕刊  噴火 「毎日新聞」昭和三十四年八月十五日附夕刊  草軽電車 「読売新聞」昭和三十五年三月二十八日附夕刊改稿「旅路」同年五月号  高原秋色 三社連合経由「西日本新聞」昭和三十五年九月一日附その他  閑居の弁 「新潮」昭和三十五年十月号  キノコ 「群像」昭和三十六年一月号  人とり川 「東京新聞」昭和三十五年十二月十日十一日附夕刊  某月某日 「小説新潮」昭和三十六年十一月号  金魚とドジョウ 「毎日新聞」昭和三十六年十一月十四日附夕刊  信濃追分と「菜穂子」 「東京新聞」昭和三十九年八月十七日附朝刊  秋近く 「読売新聞」昭和三十九年八月二十二日附夕刊  石仏その他 「小原流挿花」昭和四十年十一月号  山村閑居 「東京新聞」昭和四十一年九月九日附夕刊  信濃追分の冬 「アルプ」昭和三十五年三月号  室生犀星 一、その若さ 筑摩書房版現代日本文学全集菊池寛室生犀星集月報昭和三十年八月刊原題「室生さんの若さ」 二、その人と虫 新潮社版室生犀星作品集第六巻月報昭和三十四年六月刊原題「草ひばり」 三、その死 「読売新聞」昭和三十七年三月二十七日附夕刊原題「室生さんを憶う」 四、その顔 新潮社版室生犀星全集第四巻月報昭和四十年十一月刊原題「室生さんの顔」 五、文士の本懐 同全集別巻第二巻月報昭和四十三年一月刊 追憶小品——  高村光太郎の死 「新日本文学」昭和三十一年六月号  神西清氏のこと 一、「詩学」昭和三十二年五月号 二、「サンケイ新聞」同年三月十二日附夕刊  ゆうべの心 「群像」昭和三十五年十月号  「我思古人」 「新潮」昭和三十八年十月号  天上の花 一、「文芸」昭和三十九年六月号 二、筑摩書房版三好達治全集第二巻月報昭和四十年二月刊原題 「最後の人」 回想——  知らぬ昔 「文学界」昭和二十七年十一月号  独仏学院の思い出 「随筆サンケイ」昭和三十四年六月号  厳しい冬 「群像」昭和四十年一月号 清瀬村にて——  文学と生と 「近代文学」昭和二十四年十月号  小山わか子さんの歌 東京療養所短歌雑誌「野火」四巻二号(昭和二十四年)  白い手帳 東京療養所同人文芸誌「群青」第一号第二号(昭和二十五年)  散文詩二題 「美術手帳」昭和二十六年十月号  病者の心 「保健同人」昭和二十七年七月号 飛天 筑摩書房版日本文化史第一巻月報昭和四十一年四月刊 プライヴァシィと孤独 「帖面」三十二号(昭和四十三年四月) 日の終りに 未発表 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]     後記  この本は私にとっての初めての随筆集である。今までにも小品随筆の類を集めて一冊の本にすることは考えないではなかったし、また出版社から勧められたこともある。しかし編輯のしかたがどうにも折り合わなかった。私はなるべくたくさん入れようと思い、出版社の方はしかるべきものだけを選び出そうとする、その選出の基準というのが難しかった。  数年前から私は文治堂という小さな本屋で自分の作品を少部数の限定版で出すことにし、今までに「批評A」と「批評B」との二冊が陽の目を見た。次には「小品」の巻を予定しているが、何分にも悠長な出版なので当分の間上梓には至るまい。それに私の批評なんかは少数の読者に読んでもらえれば結構だが、随筆となると少しく事情が違う。そこで文治堂の方のは年代順に何もかも入れることにし、新潮社から出してもらう分は自分の好みで編輯した。  それにもう一つ、この本を急に出したくなったわけがある。この本の一番おしまいに入れた「日の終りに」は、今年の三月に或る文芸雑誌のために書いたものだが掲載に至らなかった。その理由は知らない。しかし私にとってはこの原稿を埋もれさせてしまうのは残念である。私はこの半年間隣家の違反建築にかかずらって疲労困憊しているが、その辺の心境がこの比較的長い随筆の中に出ている筈である。従ってこれを活字にする手段として、急ぎ随筆集を一冊分纏めなければならなかった。  と言えば如何にも際物《きわもの》めいた感じが伴うが、私にそんな器用なことが出来る筈はない。私は「日の終りに」に出て来る私という人物をよりよく理解してもらうために、この一冊の中で時間が主役を演じるように全体を按排し、また現在の落莫たる心境になるべくふさわしいものを集めることにした。故人を偲ぶものが多いのはそのためである。  堀辰雄と室生犀星とに関して私の書いたものは、文学的な評価に及んだエッセイは別として、殆どがこの中にある。そしてこの二人の先輩と私とは信濃追分という土地を媒《なかだち》として結びついているから、信濃追分に関する短い文章は全部一ところに集めた。同様に私の親しかった先輩友人への追悼も一ところに集めた。「回想」の三篇は私の過去からの三つの情景であり、「清瀬村にて」は執筆の時期は溯るが、書かれている背景は「回想」のあとに続き、サナトリウムで日夜呻吟していた頃の作である。いちいち日附がついているから執筆の時期を確かめることが出来る。何しろ全体を通じて最も古いのは昭和二十四年の作、最も新しいのが今年の作となると、その間二十年に及ぶわけだから、文章にもむらがあり、校正をしていながら時々厭になることがあった。それに清瀬で書いたものの中には息の詰りそうなのがあって、我ながら昔を想うと空々寂々たるものを感じる。しかし信濃追分の短い随筆には固苦しいものは一つもないから、それで相殺してもらいたい。一冊の愉しい本をつくりたいというのが、そもそもの発想なのだから。  従ってこの随筆集には、身辺日常に関するもの、文学絵画音楽などに関するもの、旅行や趣味に関するものなどは、はぶいてある。それらは折を見ていずれ纏めるかもしれない。とにかくこういう種類の本は初めてだから、どういうふうに出来上るか自分でも心もとない。      昭和四十四年六月 [#地付き]福永武彦   この作品は昭和四十四年八月新潮社より刊行された。